三角縁神獣鏡② ― 2022/12/23
従って、祇園山古墳と同時期に埋葬された1号甕棺墓から出た鏡片がもし三角縁神獣鏡のかけらならば、同古墳は卑弥呼と関係ないことになる。
幸いなるかな、写真を見て分かるように、「三角縁」ならぬ「平ぶち」である。
では、どんな鏡なんだろう。
1979年の祇園山古墳調査報告(福岡県教委)で確認してみた。
古いようだが、これ以降、同古墳の調査は行われていないのだ。
それによると、後漢の作とみられる。
神獣鏡ではあるようだが、現存部分に神像は見られない。
「類例の多い神獣鏡とはならず、また甕棺墓出土鏡としても異例の型式である。竜と虎を配したものと見られるが、両者は相向わず盤竜鏡とも異なる」
銘文を判読すると、「吾乍明□幽凍三商周□無□配疆會…」云々となる。
『鏡が語る古代史』(岩波新書)p.176にある、湖南省で発掘された重列式神獣鏡の銘文にそっくりだ。
すなわち「吾作明鏡幽涷三商周刻無祧配象萬疆…」、読み下すと「吾れ明鏡を作るに、三商を幽錬す。彫刻兆(くぎり)無く、像を万疆に配す」。
「幽涷三商」は常套句で、「五行思想の『商』は『金(こん)』で、『三商』は銅鏡の主要な三種の金属を意味し、ひそかに銅原料を精錬したことをいうのだろう」(同書)という。
1979年の調査報告は、祇園山古墳の年代を検討するに当たって、「現高良大社蔵の舶載三角縁天・王・日・月・獣文帯三神三獣鏡を、年代比定の資料としては取り上げない」とした。正しい態度である。
では、年代はどうなったか?
幸いなるかな、写真を見て分かるように、「三角縁」ならぬ「平ぶち」である。
では、どんな鏡なんだろう。
1979年の祇園山古墳調査報告(福岡県教委)で確認してみた。
古いようだが、これ以降、同古墳の調査は行われていないのだ。
それによると、後漢の作とみられる。
神獣鏡ではあるようだが、現存部分に神像は見られない。
「類例の多い神獣鏡とはならず、また甕棺墓出土鏡としても異例の型式である。竜と虎を配したものと見られるが、両者は相向わず盤竜鏡とも異なる」
銘文を判読すると、「吾乍明□幽凍三商周□無□配疆會…」云々となる。
『鏡が語る古代史』(岩波新書)p.176にある、湖南省で発掘された重列式神獣鏡の銘文にそっくりだ。
すなわち「吾作明鏡幽涷三商周刻無祧配象萬疆…」、読み下すと「吾れ明鏡を作るに、三商を幽錬す。彫刻兆(くぎり)無く、像を万疆に配す」。
「幽涷三商」は常套句で、「五行思想の『商』は『金(こん)』で、『三商』は銅鏡の主要な三種の金属を意味し、ひそかに銅原料を精錬したことをいうのだろう」(同書)という。
1979年の調査報告は、祇園山古墳の年代を検討するに当たって、「現高良大社蔵の舶載三角縁天・王・日・月・獣文帯三神三獣鏡を、年代比定の資料としては取り上げない」とした。正しい態度である。
では、年代はどうなったか?
祇園山古墳は弥生時代と古墳時代の接点 ― 2022/12/23
結論から行こう。
1979年の福岡県教委の調査報告で「(祇園山古墳の)実年代は弥生時代と古墳時代との接点に求めざるを得ない」とした。
まさに私が20日、最初に書いた記事は正しかったのだ!
つまり卑弥呼は弥生時代と古墳時代の間で死んでいるのだ。
卑弥呼が死んで弥生時代は終わったと言い換えてもいい。
もっと結論を深掘りしよう。
祇園山古墳裾部外周の第1号甕棺墓に使用された甕形土器は、糸島地区で盛行した弥生時代後期後半以降の甕棺専用大型甕形土器の計登場にあって、その最終末期に属する。
一方、方墳は、削り出しと盛土とを併用し、かつ、葺石を2段にわたってめぐらしており、古墳として定型化した姿をとる。
すなわち、担当執筆者はこう締めくくる。
「最終末型式の甕棺専用大型甕形土器と定型化した方墳の共存が意味する所は極めて重要と判断する」
行政の文化課職員だからこれ以上は書けなかったのだろう。
私が代わりに言いたい。
弥生時代と古墳時代との接点を示す、極めて重要な方墳だから卑弥呼の墓である可能性が極めて高い‼
なお、執筆者は「本墳は当該地域における最古期の定型化した古墳――畿内型古墳の一つと思われる」としながら、「調査当時から、祇園山古墳は最古の古墳だと称してきた」と矛盾したことを書いている。
最古の古墳なら、畿内型もへったくれもないだろう。
卑弥呼を葬った者たちが創造した始原の古墳なのだ。
1979年の福岡県教委の調査報告で「(祇園山古墳の)実年代は弥生時代と古墳時代との接点に求めざるを得ない」とした。
まさに私が20日、最初に書いた記事は正しかったのだ!
つまり卑弥呼は弥生時代と古墳時代の間で死んでいるのだ。
卑弥呼が死んで弥生時代は終わったと言い換えてもいい。
もっと結論を深掘りしよう。
祇園山古墳裾部外周の第1号甕棺墓に使用された甕形土器は、糸島地区で盛行した弥生時代後期後半以降の甕棺専用大型甕形土器の計登場にあって、その最終末期に属する。
一方、方墳は、削り出しと盛土とを併用し、かつ、葺石を2段にわたってめぐらしており、古墳として定型化した姿をとる。
すなわち、担当執筆者はこう締めくくる。
「最終末型式の甕棺専用大型甕形土器と定型化した方墳の共存が意味する所は極めて重要と判断する」
行政の文化課職員だからこれ以上は書けなかったのだろう。
私が代わりに言いたい。
弥生時代と古墳時代との接点を示す、極めて重要な方墳だから卑弥呼の墓である可能性が極めて高い‼
なお、執筆者は「本墳は当該地域における最古期の定型化した古墳――畿内型古墳の一つと思われる」としながら、「調査当時から、祇園山古墳は最古の古墳だと称してきた」と矛盾したことを書いている。
最古の古墳なら、畿内型もへったくれもないだろう。
卑弥呼を葬った者たちが創造した始原の古墳なのだ。
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