祇園山古墳は弥生時代と古墳時代の接点2022/12/23

結論から行こう。

1979年の福岡県教委の調査報告で「(祇園山古墳の)実年代は弥生時代と古墳時代との接点に求めざるを得ない」とした。

まさに私が20日、最初に書いた記事は正しかったのだ!

つまり卑弥呼は弥生時代と古墳時代の間で死んでいるのだ。
卑弥呼が死んで弥生時代は終わったと言い換えてもいい。

もっと結論を深掘りしよう。

祇園山古墳裾部外周の第1号甕棺墓に使用された甕形土器は、糸島地区で盛行した弥生時代後期後半以降の甕棺専用大型甕形土器の計登場にあって、その最終末期に属する。

一方、方墳は、削り出しと盛土とを併用し、かつ、葺石を2段にわたってめぐらしており、古墳として定型化した姿をとる。

すなわち、担当執筆者はこう締めくくる。
「最終末型式の甕棺専用大型甕形土器と定型化した方墳の共存が意味する所は極めて重要と判断する」

行政の文化課職員だからこれ以上は書けなかったのだろう。

私が代わりに言いたい。

弥生時代と古墳時代との接点を示す、極めて重要な方墳だから卑弥呼の墓である可能性が極めて高い‼

なお、執筆者は「本墳は当該地域における最古期の定型化した古墳――畿内型古墳の一つと思われる」としながら、「調査当時から、祇園山古墳は最古の古墳だと称してきた」と矛盾したことを書いている。

最古の古墳なら、畿内型もへったくれもないだろう。
卑弥呼を葬った者たちが創造した始原の古墳なのだ。

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