応神天皇はどこで生まれたのか2023/02/15

本ブログの過去記事を見ていたら、4年3カ月前の2018年11月に宇美町の宇美八幡宮に行っていたことが分かった。

神功皇后は夫の仲哀天皇が筑紫で没したあと、臨月の身で新羅に渡って降伏させた。
新羅の王は殺さず、馬飼いにした。
ここでも日本での馬の飼育の起源が述べられる。320年のことだ。

皇后は新羅から筑紫に帰り、12月14日、のちの応神天皇を産まれた。
その産みの処を名づけて「宇瀰(うみ)」といった。
それが現在の宇美八幡宮というわけだ。
写真はその奥宮の「胞衣(えな)ヶ浦」へ続く階段だ。
もちろん皇后がお産したときの胞衣である。

だが、以前も書いたように、臨月の皇后がお産に来るには宇美町は遠すぎる。

皇后は「戦が終わって帰ってきてから生まれるように」とお祈りして石を腰にはさんでいたが、その石は怡土郡(糸島)の道のほとりにあると日本書紀に明記してある。

糸島の湾に帰港すると石を外し(ゆかりの鎮懐石八幡宮がある)、近くの宇美八幡宮(宇美町と同名)あたりで出産したのだろう。

応神紀では、天皇は筑紫の蚊田(かだ)でお生まれになったとしている。
この蚊田がわが小郡市との説もある(若宮八幡神社)が、やはり遠すぎる。糸島のどこかであるのは間違いない。

ところで、2018年11月に宇美町の宇美八幡宮に行ったのは、聖母宮式年大祭で神功皇后像が25年に一度の御開帳だったからだ。

そのとき購入した記念誌を読み返してみると、けっこうショッキングなことが書いてある。

宇美八幡宮の境内に「聖母宮(しょうもぐう)」が建ったのは、1706年、筑前福岡藩の4代藩主、黒田綱政の寄進による。

その際、ご神体として祀られたのが、「聖母宮御神像」すなわち神功皇后の像である。

式年大祭に当たって、九州国立博物館が御神像を調査・修理したところ、仏像から改変されたものだと分かった。

しかも日本製ではなく、14世紀後半から15世紀前半にかけて朝鮮半島で造られた仏像だとみられる。帝釈天として造られた可能性が高いという。

これはしたり。
神功皇后といえば4世紀の人。
仏教伝来より200年も前だ。

しかも朝鮮製とは、三韓征伐の英雄としては皮肉ではなかろうか。