朝日新聞とWGIP2018/01/12


先日、関野通夫『日本人を狂わせた洗脳工作 いまなお続く占領軍の心理作戦 』(自由社ブックレット)の中の一節、「CIE(GHQの民間情報教育局)の手先にされた朝日新聞」を取り上げた。

ただし、著者はどうして朝日新聞がCIEに目を付けられたのかは「謎」だと書いている。

しかし、月刊『正論』2月号にヒントがあった!

ともに朝日新聞から抗議を受けている高山正之氏と小川栄太郎氏の対談で、高山氏は「笠信太郎は戦時中からアレン・ダレス(後のCIA長官)とスイスで会っていた。アメリカの国務省と朝日新聞の間にはずっと強い紐帯があった」と語っている。

ウィキペディアによると、笠信太郎(りゅう しんたろう、1900―1967年)は1936年に朝日新聞に入社、戦後は1948年12月から1962年12月に辞任するまで14年間にわたって朝日新聞論説主幹を務めた。

辞任の理由が驚くべきものだ。
「1961年、ダレスがピッグス湾侵攻作戦の失敗で失脚したためか、その後ろ盾を得ていた笠は、翌62年に論説主幹を辞めることとなった」というのだ。
「CIAの対日工作者としては最古参の一人にして中心的な存在でありながら、岸信介と同様、笠の機密ファイルは未だ公開されておらず、CIAとの協力関係の全貌は不詳である」
いやはや、大変な人物が戦後間もない朝日新聞を主導していたものだ。これはぜひとも正体が暴かれなければならない。

高山氏は「朝日は本当に、日本をおとしめることに義務感みたいに思っていてそれに邁進している。これはまさにウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムそのままなんだ」と指摘している。

戦前の中国人も「西郷どん」を尊敬した2018/01/12

東京裁判の「東條英機宣誓供述書」を読んでの一次史料つながりで、「汪精衛自叙伝」(昭和16年9月10日発行)を読んでいる。
これも国立国会図書館デジタルコレクションから印刷した。380ページ。

汪精衛は汪兆銘ともいい、東條英機が議長となって昭和18年11月に東京で開いた大東亜会議に中華民国代表として出席しているので、どんな人物か興味を持った。

半分読んだところでまず、西郷どんの話から……。

汪氏は明治37年(1904)9月、20歳で「あこがれの東京」に留学する。

日露戦争の最中で、「東京にいた中国人は一万を遥かに超えていたのだが、それが一人残らず日本を心から支持していた」という。

そして、「わたくしが一番打ち込んでいた、日本の偉人は西郷南洲と勝海舟の二人であった。この二人なくしては江戸事件の解決はもとより、明治維新もあれ程見事な完成を見ることが出来なかったろう、というのがわたくしの考えであって、わたくしは神田辺りの本屋を歩くたびに、この二人の偉人に関係あるものを漁ることを忘れなかった」

「日曜日などにはよく上野公園に出掛けて、西郷どんの犬をつれた銅像を飽かず眺めたものだ。中国の革命運動は国内の分裂をもたらし、結局は列国の中国分割を促進するようなものだと、康有為や梁啓超等は盛んに反対したものであるが、わたくしは明治維新の時のこと、殊に西郷・勝両雄のことなどを考え、決してそんな心配はないと確信していた」

よく「大陸浪人」的な日本人には西郷南洲の教えが大きな影響を与えていたと聞くことがあるが、中国人にとっても西郷は尊敬に値する偉人であったとは初めて知ることであり、とてもうれしく思った次第である。

南京陥落後に日中友好は成就した2018/01/14

「汪精衛自叙伝」(昭和16年9月10日発行)を読了した。

この本を読んだ目的の一つは、戦時中の南京の様子を知りたかったからだ。

汪精衛(汪兆銘)は国民政府の行政院長など務め、首都南京にいたが、日本軍が迫った昭和12年11月20日に南京を撤退した。

南京陥落の12月13日には現地にはいないわけだが、2年余り後の昭和15年3月17日、南京に戻り、新しい国民政府を樹立して主席代理となる。

もし「南京大虐殺」のような蛮行があれば、最も早く知りうる立場にあった。
ところが、380ページの本の中に、一個所も「虐殺」の文字などない。

南京の状況については、ただ一段落。
「南京を離れて一路、漢口に着くと民衆怨嗟の声がもう耳に入る。『負傷兵は続々と流れ込んで来て、あらゆる悪事を働いている。日本軍が来るか来ないか中に、我々は傷兵や土匪の蹂躙下に命を失ってしまうだろう』と。父老のこの言葉は今でもわたくしの耳に残っている」

むしろ中国兵の悪事についてはっきりと書いている。
これは東中野修道氏ら南京研究者の、南京に入場した日本軍は市民の中に紛れたゲリラの掃蕩に苦労した、という指摘に通じる。

その背後には共産党の存在があるのだが、それは稿を改めるとして、南京陥落一年後の昭和13年12月22日、「善隣友好、共同防共、経済提携」の近衛声明が出され、汪兆銘は「古来幾多の戦勝国にして無償不割譲を以て講和条件としてものがあろうか!」と感動し、同月30日には「和平反共救国」で応じる声明を出した。

汪兆銘はその後、共産党と結びついた蒋介石重慶政府に命を狙われながら、極秘裏に来日するなどし、昭和15年1月、青島会議で、重慶政府と絶縁して新政権樹立の本格活動に入る。
そして前述したとおり、同年3月17日、南京に戻り、新しい国民政府を樹立して主席代理となる。

そして、7月5日、日中の国交調整会議が開かれた日の気持ちを汪兆銘はこう記している。
「この日南京の空はひろびろと晴れ、夏の蒼空には綿雲が浮いて会議の前途の明るさを象徴し、蝉時雨がひと時大きな波の起伏をなして、豊かな高低で快く耳朶を打ち、流るるが如く通り過ぎて行く。会議場の庭にはいかめしい中日交渉の空気とは凡そかけ離れた柔らかな雰囲気が満ち、日本と中国との高邁なる友情に結びあっている両国代表の前に、情熱の花、真紅のカンナの花がかすかに揺れていた」

11月30日、日華基本条約で日本は南京国民政府を正式承認した。
また満州国も加わり、日華満三国共同宣言も調印された。

そのときの喜びもまた汪兆銘は美しく描いているが、これは割愛しよう。

果たして「南京大虐殺」のような許し難い行為があれば、このような浮き立つような気持ちで友好関係が結べるだろうか。しかも南京で!
時代の流れを追えば、南京大虐殺などなかったとすんなり理解できる。

中国とコミンテルン2018/01/15


「汪精衛自叙伝」(昭和16年9月10日発行)には頻繁に「第三インター」が登場する。

そもそも、どうして「第三」インターナショナルなのか。
江崎道朗『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』(PHP新書)で見てみよう。

マルクスが創立宣言と規約を起草したのが「第一インターナショナル」(1864―1876年)。ちょうど明治維新の頃だ。
労働組合の国際的連帯組織だったというが、内部対立で解散する。

次に世界各国の社会主義政党の連帯組織として、1889年、パリで「第二インターナショナル」が結成される。

1914年に第一次世界大戦がはじまると、レーニンは「反戦平和」を強烈に訴え、戦争を防ぐことができなかったとして第二インターを徹底的に批判する。そして「平和を築くためには革命を起こしてブルジョワを打倒し、プロレタリア独裁の体制を作らなければならない」と主張する。

1917年ロシア革命、翌年には世界初の共産主義国家ソ連が誕生する。
レーニンが1919年モスクワで結成したのが「第三インターナショナル(コミンテルン)」だ。世界に共産主義運動を拡大する組織である。

さて、中国の話に戻ろう。
1911年、清で辛亥革命がおこり、翌年、宣統帝が退位して中華民国となる。年代で分かるように、これは共産主義とは関係ない。孫文の三民主義による革命である。

1918年には中国に共産主義思想が流入する。
孫文は「容共」で、国民党に共産党員が入るのを許した。

1925年孫文が没すると、国民党内は「容共」をめぐり左右両派が対立する。
同年発足した国民政府で主席となった汪精衛は当初は容共だったが、ソ連から派遣されていた政治顧問ボロディンがコミンテルンから秘密指令を受けていることを知り、ついに共産党との決別を決意する。

「共産党はただ第三インターあるを知って中国あるを知らず、第三インターの秘密指令を受けて、階級闘争のスローガンを抗日というスローガンに取り替え、而して中国数年来の民族意識を利用し、遂に中日戦争を挑発した」

1938(昭和13)年12月22日、「善隣友好、共同防共、経済提携」の近衛声明が出され、汪兆銘は「古来幾多の戦勝国にして無償不割譲を以て講和条件としてものがあろうか?」と感激し、同月30日には「和平反共救国」で応じる声明を出した。

こうして昭和15年、南京で日華基本条約、日華満三国共同宣言が調印され、汪精衛は翌16年お礼のため来日している。その際おこなった「友邦日本を訪れて」の演説は感動的だ。

「『東亜新秩序』というスローガンが、貴国日本から唱え出されてからの中国方面では、暗澹たる中にも初めて一縷の光明を見出した。また近衛声明が発表されてからは、更に具体的に中日両国の提携の方法が明らかとなり、この一縷の曙光に向って前進するに至った。東亜新秩序建設の持つ意義は、一方において百年この方侵入して来た西洋の経済的侵略主義の害毒を、我が東亜から駆逐し廓清せんとすることであり、他方においては二十余年来の共産主義の狂濤を防遏(ぼうあつ)せんとすることであって、かかる責任を独力で背負うことのできるのは、今まで東亜においてはただ日本があるだけであった。(略)中国は立ち所に反省し、『最早や我々は兄弟まがきにせめぐ時節ではない。中国は速に自己の本来の面目を回復し、東方の道義的精神に基いて経済侵略主義と、共産主義との二重圧迫が連鎖となって形成している旧秩序を打破し、独立自由、共存共栄の新秩序を建設しなければならない』と自覚するに至った」

それにしても日本は一国で米英の経済侵略主義と、ソ連(コミンテルン)の共産主義と戦ったのだから、勝てるわけがない、というか、その意気やよし、というべきか。

なぜ、日本が目の敵、標的にされたかについても、「汪精衛自叙伝」は明確な答えをくれた。日露戦争の勝利だというのである。

「日本人が露国人に勝ったということは、実にこの最近幾百年間に於て、亜細亜人が欧羅巴人に戦勝した最初の第一回であったから、その影響は実に大きく、直ちに全亜細亜に伝わり、全亜細亜民族は雀躍して喜び、そして極めて大なる希望に輝くようになったのである。(略)この通信が欧羅巴中に伝わると、欧羅巴の人民は親が死んだ如くに悲しみ、殊に英国は日本の同盟国でありながら、英国人達は一たびこの消息を聴くや、首を振り眉を顰めて、『日本がこの勝利を得たことは、結局白人の幸福ではない』と言うた」

また、アメリカのある学者(誰なのか知りたいが、まだ分からず)の本を紹介しているが、そこに書いてあるのは驚くべきことである。
「日本が露国に勝ったのは即ち黄人種が白人種に勝ったのである。というこの種の思潮が将来増大し行き、有色人種が皆提携するようになったならば、それは白色人種の為に甚だ不幸のことであり、白色人種には禍となるから、白色人種は、この様な思潮を予防することに努めなければならぬ」「欧羅巴の民衆解放運動は、当然なる文化的の運動であるが、亜細亜の民衆の解放運動は反逆的行為とみるべきである」

昭和天皇が大東亜戦争の遠因について、「日本の主張した人種平等案(注=1919年、第一次大戦後、平和会議で日本が提出した人種差別撤廃案)は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如き(注=1924年、アメリカの排日移民法)は日本国民を憤慨させるに充分なものである」と述べられている。

米英ソは日本を懲らしめるべく、初めから狙い撃ちにしていたのだ!

対する日本には崇高な理想があった。
「大東亜新秩序」とは共存共栄の秩序であり、自己の繁栄のために他民族・他国家を犠牲にするような「旧秩序」とは根本的に異なる。

人種差別を撤廃し、あまねく文化を興隆し、進んで資源を開放し、もって世界の進運に貢献する。口に自由平等を唱えつつ、他国家他民族に対し抑圧と差別とをもって臨み、自ら膨大なる土地と資源とを独占し、他の生存を脅威して顧みざるごとき、世界全般の進運を阻害するごとき旧秩序であってはならない――。

そして悪の陣営が勝ったわけか。

西郷どんブームでいいじゃないか2018/01/15

facebook上で大河ドラマ「西郷どん」が始まる前からケチをつけていた人たちが、まだ昨日2回目が終わったばかりなのだが上げた拳を下ろせないのか、相変わらず文句ばかり言っている。

「英雄たちの選択」や「歴史秘話ヒストリア」作ってるんじゃない。
ドラマなんだから面白ければいいんだ!
これまで2度とも、あやうく泣きそうになった。
エンターテインメントとしては最高の出来じゃないか。
そりゃ、私だって、西郷と月照のラブシーンが出てきたら怒るけど…。
まだ出てきてもいないのに、怒ったってしょうがないだろう。

映画もドラマも一番大事なのは脚本。
二番が俳優で、原作は実のところ5、6番目ってとこ。
私だって原作が林真理子と聞いたときは、あちゃーと思ったけど、ドラマを見たらさすが脚本家!と思った。

そして、俳優もいいね。
貧しい農家の少女が売られるなんて全くベタなエピソードなんだけど、そんなつまらなさを感じさせない。

このドラマの力なら、「西郷どんブーム」がきっと起こるに違いない。
それが起これば、何より地元鹿児島が変わる。

というのも、鹿児島県民には「芋焼酎ブーム」のブレイクスルー体験があるからだ。

ウィキペディアによると、2003年頃から焼酎乙類を対象とする「本格焼酎ブーム」が起きたとあるが、このブームは鹿児島の夜の景色を一変させた。

それまで二次会のスナックはサントリーウイスキーが棚を独占していた。
生活が豊かになるにしたがって、棚の主役はオールド→角→リザーブ→ロイヤルと変化していったが、サントリーウイスキーは不動の座を占めていた。
スナックで焼酎を飲むなど、鹿児島でも考えられなかった。

ところが、焼酎ブームのおかげで一変。
スナックの棚にはすべて焼酎のボトルが並び、ウイスキーは一掃された。

さすが一つの寺も残さなかったという廃仏毀釈の薩摩だ。
わずか半年くらいで天文館のすべてのスナックが変わったように記憶する。

何より焼酎ブームがもたらした恩恵は、鹿児島の人たちが誇りを持って焼酎が呑めるようになったことだ。

それまで鹿児島の飲ん兵衛は、芋焼酎は臭い、臭いといわれてなんとなく肩身が狭かった。
銘柄も少なく、鹿児島市内では「さつま白波」ばかり。
それが今やいろんな焼酎が酒屋にはずらり。

同じように、西郷どんブームが来れば、鹿児島の人たちが西郷さんに誇りを持つ(今でも持っているが、新たに鈴木亮平の姿として刻印される、その現代的な意味合いだ)。
今史実をガミガミ言ったって、どうせ「西郷どん」が終わって時間が経てば、ドラマの細かい内容などみんな忘れるだろう。
「西郷さんってすごい人だったんだな」くらいのイメージあるいは鈴木亮平の印象しか残るまい。
それでいいのだ。

そこをきっかけに正しい史実を学ぶ人も出るだろう。
学校で「南洲翁遺訓」を読ませたり、薩摩の歴史を副読本にして郷土の歴史を学ぶようになればいい。

西郷どんブーム大歓迎だ。

ココナラを始めました2018/01/18

得意4ジャンルの執筆を全力でやります 反日を許さない、保守系ライターです(笑)