地方紙記者 死屍累々日記 ― 2026/01/08
まえがき――編集局長のトイレ・ハラスメント
私が勤めていたのは九州の有力地方紙。その県では圧倒的なシェアを誇っている。だから、そこの編集局長ともなれば地元では一目置かれる存在と言っていいだろう。
ところが私は、そんないい大人の編集局長にトイレの電気をわざと消されたことがある。
三階の編集局は南北百メートル、東西二十メートルという長方形のワンフロアで、中央と北端の二個所にトイレがある。中央のトイレは屋外に面した窓がないので、電気を消したらほんとうの真っ暗闇である。
私が大きな方の用を足そうとして個室に入ると、続いて局長が入ってきた。なぜ分かったかというと、強烈な香水の匂いがしたからである。局長は鼻が曲がるほど大量の香水をじゃぶじゃぶ身に振りかけているので、どこにいてもすぐ分かる。香水なんてのは耳たぶの後ろにちょんと付ければじゅうぶんであって、微かに香るからお洒落なのだ。周りの人間が鼻で息をすることもできないほどかけるもんじゃない。
局長はおかっぱ頭で腹の出たメタボ中年男だ。自分の不潔感を気にして香水を使い始めたのだろうが、あれだけかければ自分の鼻も利かなくなってどんどん使用量が増えていったのだろう。
局長は軽く小用を足してトイレを出て行くときに、パチッと電気を消していった。
あっと声も出なかった。
まだ私はズボンを下ろしてしゃがんだままである。
真っ暗闇で何も見えない。
そのあとはすべて手探りで動いた。
局長は私とほとんど間を置かず入ってきたし、中央のトイレに行くには遮る物のない長い廊下を通るしかないのだから、必ず私の姿を目撃している。だから、私が個室にいることを知っていながらわざと電気を切ったことは明らかだ。
それでも、こんなせこいことを編集局長がするか、いくらなんでもこんな子供じみた嫌がらせをするだろうか。そんな悪意を信じたくない気持ちもまだ少しあったのだが、しばらくしてまた同じことがあった。私のあとにあの強烈な香水の臭いとともに入ってきた人物が、出るときにまた電気を消していったのである。それではっきりした。
今度は私も「おい! 消すなよ!」とすぐに大声で叫んだが、そいつは何も答えず去っていった。私は真っ暗闇のトイレからほうほうの体で出ると、フロア中央の局長の机の前に行って睨みつけてやったが、ぷいとそっぽを向いて隣の席の次長に話しかけた。明らかに犯行後の犯人の態度だった。
以来、中央のトイレは避けて、北端の窓のあるトイレに行くようになった。
それからしばらくして私は50歳で会社を早期退職した。編集局長に二度も電気を消された「トイレ・ハラスメント」も腹に据えかねたが、もちろんそれだけで辞めたわけではない。36歳の時に赴任した地方支局での出来事が始まりだった。
私は退職後、ミステリー小説を書こうと思った。みっともないから自分の胸の内に秘め、会社の誰にも家族にも話したことがなかった数々の〝事件〟。それをフィクションという形に昇華して世に出そうと何年ももがいた。
とあるカルチャーセンターの「現役プロ作家が教える」小説教室を見つけ、車で1時間20分かけて通うようになった。一生懸命、プロットを考えた。
「こんなことがあったら、大スキャンダルですよ」
私が提出したプロットを小馬鹿にするように、作家が言った。「市長が新聞社の人事に影響力を及ぼしたとしたら、大スキャンダルじゃないですか」。言外に「そんなこと現実にはあり得ないでしょう」というニュアンスがある。
「例えば、こうしたらどうか」――作家は代替案を示し始めた。つまり、こんな現実離れしたプロットでは読者は付いてこない、リアリティーがないから変えろと言っているのだ。
(いや、実際にあったことなんだ……)
あとはもう、耳に入らなかった。そうか、あれは大スキャンダルだったのだ。何事も気づくのが遅い人間だが、20年も経ってから気づかされるとは。大スキャンダルという発想はなかった。個人的なパワーハラスメント(当時そんな言葉はなかったが)として受け取っていた。私ごとだから誰にも打ち明けなかった。しかし、理不尽な目に遭ったことを表現したい。フィクションとして昇華したいという切実な思いで苦しんでいた。
それが実は、スキャンダル=報道機関の不祥事という社会的な意味を持つものだったとは! コペルニクス的転換が起こった。プロの作家さえも現実とは思えないような、非常識な仕打ちに自分は遭わされたのだ。
ハラスメント
「ハラスメント」という言葉が定着したのは意外と遅い。特に地方では遅れたようだ。2000年代初頭にわが編集局内で初めてセクハラ事件が起きた時(デスクによる部員へのセクハラだからパワハラの要素もあった)、むしろ男のデスク側に同情的な見方があった。女のほうが嘘を言ってるんじゃないかというわけだ。女性陣でさえそうだった。今では信じられないが、まだその程度の認識だった。もちろん、的外れなことを何でもかんでも「セクハラだ、パワハラだ」と騒ぐのはいただけない(これを「ハラスメント・ハラスメント」と呼ぶらしい)。しかし、言葉(概念)があるかないかというのは当事者にとってはとてつもなく大きい。当時私は、どうして自分がこんな嫌がらせに遭うのか分からず苦しかった。今、それらを「ハラスメント」だと定義づけると腑に落ちる。解決にはならないが、呼び名があるだけで名状しがたい不可解さからは救われるのだ。そういう意味で本書ではまだそれほど定着していなかった時代を含めて「ハラスメント」という言葉を使っている。
第1章 支局勤務、本社からのハラスメント
某月某日 地元の祭り 局次長が支局を出し抜く
36歳の時、県南の港町の支局に配属になった。妻と小学校低学年の息子。家族3人で3年間暮らすこの町はどんなところだろう。県庁所在地以外で生活するのは初めてだ。
支局は事件事故も大事だが、日常取材の中心は行政・議会上の問題や、町の話題、選挙だ。管内は一市三町、警察署が二つ。一人で回らなければならない。地方支局こそが地方紙記者の醍醐味。一度や二度は行かねば一人前ではない。
夜が明けないうちから「新聞が来てない」という苦情の電話が来るし(「申し訳ありませんが、それは販売所に連絡してください」と答える)、休日には祭りやイベントが集中するので休めない。二十四時間三百六十五日、支局に縛り付けられる。
そのとき、北が社会部長だった。支社支局は組織上、地方部に属するが、事件事故については社会部が直接指示する。それは本来デスクの仕事だが、北部長自ら台風について電話してきた。南端の港町だから台風が真っ先にやって来ると決めつけている。
「そっちの様子はどうだ」
支局は町の高台にあって、母屋とは庭をはさんで渡り廊下でつながっている職住一体型だ。小ぢんまりとしたコンクリートの二階建ての一階が車庫で、二階に暗室を備えた仕事場がある(当時まだ自分でフィルムを現像していた)。高台の二階だから、海も港も窓から一望のもとに見渡せる。
「まだ何も。風もないし、波もありません」
すると、
「そんなはずはなか!」
と一喝だ。
「見てこい!」
社会部長は天気予報も見てないのか。台風はまだはるか南方海上にある。個人的な嫌がらせでなければ、天気図の基本も知らない馬鹿だ。
仕方がないので、一応車で港を見て回った。帰ってくると、私の不在の間にまた北部長から電話があって、様子を聞かれた妻が私と同様に答えると、また「そんなはずはなか!」と怒鳴りつけたという。
1年目はまだ、こんなもんで済んだ。港町は何より魚が驚くほど旨いし、子供も自然の中でのびのびと暮らしていた。平穏でさえあれば、田舎暮らしは悪くない。
北は次の年、編集局ナンバー2の局次長になった。
その日、管内の小さな海沿いの集落で秋祭りが行われた。京の祇園祭がはるばる伝わったもので、集落にある八坂神社から御神幸行列が練り歩くのだが、中でも十二冠女(かんめ)という晴れ着で着飾った少女たちがしずしずと歩く姿が一番絵になる。
しかし、気候の良い秋の休日にはイベントが集中する。その日も管内の各地で秋祭りが行われており、前の年に十二冠女の写真を地方面に掲載していたので、バランスを失しないよう別の地区の祭りに行った。十二冠女は町の広報課に後で写真をもらって地方面に掲載するつもりだった。支局は手が足りないので、よくやることだ。
ところが、翌日の紙面を見て目を疑った。
頭に賽銭箱を載せて歩く可愛い少女たちが、一面ど真ん中にカラーで大きく写っている。
十二冠女だ!
気が動転した。
その管内の全責任を任されている支局長にひと言の断りもなく、こんなことはあり得ない。
写真部だろうか。
写真部は紙面のビジュアル化の至上命令を受けて、毎日一面用のカラー写真を探し求めている。しかし、支局管内にやってくるときは必ず支局長に声をかける。今回はその一言を失念したか。
写真部に電話した。気持ちを抑えて聞いた。
「あの写真はそちらですか」
違った。
犯人は北だった。
北が休日にわざわざ会社に上がってきて、自分の撮ってきた写真を載せるように整理部(紙面を作る部署。のちに編集部と改称)に売り込んだという。
秋祭りに行ってみたら支局長の姿が見えないからといって、記者ではない局次長が取材したり原稿を書いたりすることはない。ましてや支局長には当然、縄張り意識がある。それを百も承知の北が踏みにじって、地元の支局長にはひと言の断りもなく自分の撮った写真をその日の一面の写真にゴリ押しして入れることなどあり得ない。それを敢えてしたのだから、私に侮辱を与える目的の行動であるのは明らかだ。編集局全体に対して私に恥をかかせるためだけにやったことだ。
これほどの悪意を見せつけられたことは会社に入って以来なかった。なぜ?なぜ?自問自答するばかりだった。
支局に出てみてようやく、世の中には七人の敵がいるという言葉の意味が分かった。しかも、社外よりむしろ社内にいるのだということを。
某月某日 市長が社長に申し出 支局長を代えてくれ
私が赴任した時、今村市長は2期目だった。
その前が3期12年務めた名物市長のTだった。アイデアマンで、空港や美術館を造った。
この港町は県の南端で、北辺にある空港が遠い。ならいっそ飛行機で結べば市民に便利だという発想だ。国内初の地域空港(コミューター空港)として開港する運びとなった。美術館は林野庁の木造施設建設促進事業を使って、支局にほど近い公園に建設した。全国公募美術展を2年ごとに開催し、港町に文化の風を吹かせてきた。
Tが引退を表明して、町の有力者たちは後継者選びに入ったが、港町は「コップの中の嵐」で政争が激しい。誹謗中傷の飛び交う中から候補者を一本化するのは困難だった。地元で選ぶのは難しいとTが見つけてきたのが今村だ。東京で大手リビング新聞の編成局長をしていた。長く故郷を離れていた〝落下傘候補〟のほうが皆もまとまりやすいとのアイデアだ。中央とのパイプも期待されて、有力者たちも決着へと傾いていった。
こうして今村は無投票で初当選した。その後の人事では行政の要である総務課長の中原が助役に抜擢されるとみられていた。ところが、助役と収入役にはあまり仕事はできそうにない、ひどく年寄りじみた二人が選ばれた。何かと直言してきそうな中原は敬遠され、近隣の一市三町でつくる広域消防組合の消防長に左遷された。今村は口出しされるのが嫌いな人間だったのだ。この人事が後々、禍根となる。
今村の就任早々、前市長T肝いりの地域空港が開港するが、翌年、Tは自殺した。市長在任中の公共工事をめぐる贈収賄事件を県警が捜査し、当時の助役や地元の建設会社社長らが相次いで逮捕された。T本人にも捜査の手が伸びるのは時間の問題と思われていた。
Tの自殺について町の人たちは決してよそ者には語らないが、当時の新聞報道を見ると、家族に「釣りに行く」と言い残して外出し、隣町の山中で亡くなっているのが発見された。車の近くで、自ら腹を切り、さらに首を切って命を絶つという、凄惨な最期だったという。
地域空港の利用者は思うように伸びず、毎年、赤字が累積した。施設維持費用は年間8千万円かかる。当然、市議会では大問題となる。ちょうど私が赴任した4月から特別委員会が設けられ、市長はけちょんけちょんに言われていた。私は当然、がんがん新聞に書いた。
基本的に行政は批判しなければ新聞記事の体を成さない。これはしようがない面がある。例えば、県や市が予算を発表する。「素晴らしい予算だ!」では新聞記事にならない。広報紙だ。どこかしら穴(問題)を見つけ、問題を指摘し、批判し、提言しなければならない。
私としては本社でやってきた報道姿勢をこの町でもやったというだけなのだが、ここでは支局長の顔や言動を誰もが恐ろしいくらい知っている。別に私がケチをつけているわけではない。議会が、議員が市長にケチをつけているのだ。これを取り違える人が多い。マスコミが文句を言っていると受け取るのだ。発言している本人でなく、報道するマスコミが恨まれる。しかし市長は新聞社出身なのだから記者の仕事については分かっていると私は思っていた。
支局2年目の年度末のこと。
県庁所在地の本社であった支局長会議の後、編集局長に呼び止められた。このときの局長は文人タイプの人だった。
会議室に二人残り、怪訝な顔を浮かべる私に局長が聞いた。
「どうだ、支局は」
「ええ、だんだん慣れてきました」
厭なことばかりあって塞いでいる、とは口が裂けても言いたくない。
局長はうんうんと頷くと本題に入った。
「市長とはうまくいってるのか」
馬面の大男の姿が頭に浮かんだ。今村は一見ぬぼーっとした印象だが、眼鏡の奥の目は冷たい。人を食ったところがある。東京で業界紙の編集長(実際は編成局長)をしていたというので、同業かと最初は親しみを持ったが、会ってすぐに取っつきにくさを感じた。
「うまくいってるも何も、是々非々ですよ。ただ、空港問題でがたがたですね。市議会では明けても暮れてもそればかりです。市長はいいかげん廃止で着地したいんでしょうが」
赴任した時から空港が市政最大の問題になっていた。市議会は「採算が合わない」「料金が高い」と文句ばかり。市長はもう投げ出したいと考えているようだった。
局長は腕組みをしてじっと机の表面を見つめてから口を開いた。
「市長がうちの社長に申し入れてきたそうだ」
「何をですか」
「市長は大学で社長の一つ二つ上の先輩でね、サークルも一緒だったらしい」
「それで」
「支局長を代えてくれと」
目の前が暗くなるとはこのことか。
市長が新聞社の人事に口を出す?
市長も憎いが、拾田社長はもっと憎い。自分の社の人間を守ることなく、はいはいと市長の言い分を聞いたということではないか。勝手な市長の言い草など撥ねつけてほしかった。またしても意味の分からない悪意によって、私は絶望に突き落とされた。
「どうする。本社に戻るか、支局長を続けるか。君次第だ」
何なのだ、これは。局長は選ばせてやると親切に言っているつもりか。
「どういうことですか」
いつもは淡々としている局長が困った顔をした。
「私もよく分からないんだ……。社長はそう伝えてくれというだけで」
頭が混乱する。
これはおかしい。しかし、声を上げたら、自分は皆から〈市長に嫌われた支局長〉の烙印を押される。恥と義憤を天秤にかける。
「市長に嫌われて支局生活を続けるのはつらいだろう?」
市長とは気が合うタイプではないが、そこまで嫌われているとは想像していなかった。反市長派の愚痴を聞いていたから? 市長選は来年、私が支局を離れてからの話だが、そこへ向けた動きに注視するのは支局の最重要な仕事の一つじゃないか。
答えは二択。退くか、残るか。どっちだ。「少し考えさせてほしい」という選択肢はない。きっと社長と市長は手ぐすね引いて答えを待っている。
焦った。人生の大事な選択なのに一刻の猶予もない。
今村の顔はもう見たくない。しかし、しっぽを巻いて逃げ帰るのは屈辱だ。かと言って本社に戻って、社長の顔を見るのも苦痛だ。退くも地獄、残るも地獄。
結論は出た。
「支局に残してください」
局長は頷いた。
「それがいい。あと一年頑張れ。社長にはそう伝えておく」
第2章 市長選対立候補の不可解な死
某月某日 墜落したセスナ 行方を消した乗客
今村市長は大学時代の後輩である拾田・新聞社社長に支局長を代えてほしいと訴えた。そんな馬鹿げた話(某作家に言わせれば大スキャンダル)が実際に編集局長の元まで下りてきて、局長は私に本社に帰るか支局残留か二者択一を迫った。私は異動を断り、残り一年を歯を食いしばって耐えたのは前章に書いたとおりだ。
3年間の支局生活を終えるにあたっては特に希望も出さなかった。本社の編集部に戻ることになった。編集部というのは、取材部の記者が書いた原稿に見出しを付けレイアウトする部署で、自ら記事を書くことはない。編集部が好きな人もいるが、記者志向の人間には閑職を与えられたようにも感じる。
3月、次の支局長となる柏木に業務を引き継いだ。
私より5歳下。中途採用で入って7年目だという。これまで一緒に仕事したことはなく、このとき初めて顔を合わせたと言っていい。私は無念さが胸に渦巻いていたため、引き継ぎ以外の世間話はろくにしなかった。柏木は私と違って、如才ない男だった。
しかし、後に驚愕の事実を知った。
柏木は今村市長と同じ大手リビング新聞の出身だった。しかも同じ編成局の上司と部下だったのだ。
さらに、今村が市長選出馬のためにリビング新聞を辞めたのと時を同じくして柏木も辞めて、うちの新聞に転職しているのだ。
これはどういうことだ!?
気に食わない私を途中交代させるのは失敗したものの、市長は旧知の拾田社長と企んで、自分の子飼いの人物を支局長として手元に置いたのだ!
そこまでやるか! これは本当に大スキャンダルだ。
(ちなみに柏木はその後、順調に出世し、編集局長から取締役に昇進した。そして筆頭取締役の専務となり、遂に先月、社長となった)
世の不条理を感じながら淡々と編集の仕事をこなしていた私に、またショッキングなニュースが飛び込んできた。その年の11月のことだった。
立島(たてじま)の飛行場で、軽飛行機が離陸直後に墜落したという。
立島は私が3月までいた港町の対岸40キロにあって、天気の良い日は肉眼で見える。周囲20キロほどの小さな島だ。港町の地域空港から軽飛行機なら20分で到着する。近海の4つの島で村を形成しており、港町とは行政単位が異なる。
正午ごろの事故だったため、夕刊に入れるにはギリギリの厳しい時間帯である。だが毎日のように起こる車の事故と違い、飛行機事故となるとニュースバリューは格段に上がる。どうしても入れたい。出稿部の社会部と受け手の編集部がバタバタしてるのを横目で見ていたので、夕刊の刷り出しが配られると早速、夕刊社会面を開いて見た。腹(真ん中のこと)にどーんと5段見出しで突っ込んである。記事は短くとも扱いは大きく、がツッコミの流儀だ。
村役場によると、軽飛行機にはパイロットと乗客の二人が乗っていたが、けがはないもよう。機体は大破したという。しかし、最後に不可解なことが書いてあった。「パイロットは同村役場の職員に電話を通じて『客ともみ合いになり、軟着陸した』と話している」というのだ。
夕方の地元テレビニュースでは、乗客は「無事」から「行方不明」に変わった。
機体は滑走路から10メートルほど外れ、北側の草叢に墜落した。尾翼はぽっきりと折れ、主翼もあちこちが破損していた。パイロットも乗客も無事だったが、乗客は墜落後に現場から立ち去り、行方不明になっているというのだ。パイロットの証言によると、乗客が操縦を妨害して機は墜落したのだという。そのため精神状態を疑われたのか、警察発表では乗客は匿名だった。
翌日の朝刊では、うちの新聞とは違い、新報(前章参照)は匿名でありながら男性の詳しい横顔を載せていた。新報は何でもかんでも見境なく詳しく書くので、資料として見るときはうちの新聞より役立つ場合が多い。その点ではその後、業績不振で廃刊になったのは残念だ。
「男性乗客は元市役所の幹部職員で、今年八月には報道陣に対して来年一月に行われる市長選に立候補することを表明していた。最近では選挙活動に向けての活動も活発に始めていた」
愕然とした。元消防長の中原さんではないか!
記事には続けて、「あけぼの航空(これが地域空港の運航会社だ)の事務所によると、十月ぐらいから頻繁に同社を訪れ、『空から広域的な行政を考える』と話し、遊覧飛行やチャーター便などを利用していたという」とあった。
私は支局最後の3月の記者コラムで、「新しい広域の発想」と題して、あけぼの航空のセスナ機による港町と立島とのつながりを提言していた。
中原さんは私の提言を考えてくれていた!
市長選に向け、2日後には決起集会を開く予定だったという。それなのになぜ自殺行為を図ったのか。
「中原さん、どうしてこんなことを!」
私は心の中で叫んだ。
第3章 社屋移転へ、金をドブに捨て続ける悪循環
某月某日 新社屋の用地 パチンコ屋から破格で購入
実は、私が港町の支局へ赴任する1年半前から、わが新聞社はおかしなことになっていた。
その年9月11日。すべては唐突な発表から始まった。私はひそかに〝新聞社の9・11〟と呼んでいる。
当時の樋口社長が、新社屋建設のための用地取得交渉に入っていると発表した。
発行部数や頁数、カラー紙面の増加に対応できる最新鋭の輪転機が物理的な問題で搬入・設置できないため、新社屋あるいは新工場を建設する必要があるという方針は前々から出ていた。ただし社員は皆、現有地での拡充、建て替えを想像していた。市役所や中心街に近くて市内交通の起点になっており、移転する選択肢は少しも頭になかったのである。
ところが、社長が発表したのは、人気がなくてどこもかしこも売れ残っている長浜の埋立地だった。
私はすぐに「それはダメだ!」と仰天した。
まだ20代の社会部記者だった頃、夏に大きな台風がこの町を襲った。台風一過の一コマを拾うために私は長浜へ向かった。
その記事には「風雨とともに亀来訪」「思わぬ置き土産」という見出しがついた。
「台風の高波にのって〝海の使者〟が訪れた。長浜一帯には、タイやタコからカメまで打ち上げられ、思わぬ台風の置き土産に、後始末に追われる人たちもひとときほほえんだ。
長浜一丁目の家具店従業員が店の内外の掃除や浸水のくみ出しをしていると、駐車場にできた水たまりに、三十㌢余りの魚が五、六匹スイスイ泳いでおりビックリ。さらに大きなタコまで出てきて『これはすごい』と掃除を続けていると、『まだ何か大きいのがいるぞ』との騒ぎに駆けつければ浦島太郎に出てきそうなウミガメだった。
また長浜二丁目の道路上にはレンコダイがピチピチ跳ね、近くで片づけをしていた人たちがそそくさと持ち帰った」
ウミガメとタコの写真が付いている。こんな海岸の埋立地に社屋を建てようなんて、正気の沙汰ではない。
しかし、会社の動きは早かった。
発表直後の10月1日には新社屋建設の方針を打ち出した冊子を全社員に配布した。莫大な投資をしてわざわざ不便なところに移るというのだ。もちろん組合は反発したが、社長は「これは経営権の問題であって、労使協議事項ではない」と突っぱねた。
突っぱねたのも道理で、用地取得交渉中どころか社長はもう勝手に契約書を交わしていた。その年が明けるとすぐ長浜一丁目の土地を取得し、所有権移転登記を完了した。これでは反対しようもない。
2千坪で31億円余り。坪当たり160万円近い破格の値段だった。購入相手はDというパチンコ業者。
溝口敦『パチンコ「30兆円の闇」』(小学館文庫)によると、樋口社長が突如移転を発表した年はちょうどパチンコ業界にとって大きな転換点となっている。警察が暴力団に代わって業界を取り込んだというのだ。
同年3月、暴力団対策法施行。8月には初のCR(カードリーダー)機導入。この二つは、警察による暴力団からのシマ捕り、利権確保の二正面作戦だったという。「暴力団の代わりに誰が業界に入ってきたのかといえば、警察OBですよ。警察がギャンブル性アップを認めてパチンコからヤクザを追っ払い、自分の縄張りに取り込んだ。そのあげくが〝パチンコ狂い〟の続発」と警察官出身者が憤慨する。
さらに詳しく見れば、パチンコ店の営業許可はもちろん、店のパチンコ機に違法がないかどうかは所轄署の生活安全課が見る。売り出す前のパチンコ機やパチスロ機は警察庁の外郭団体が試験、検査する。あげくOBはパチンコ業界に再就職する――という仕組みらしい。
警察がパチンコ業界を掌握したこの年に、パチンコ業者が持て余していた人気のない土地を新聞社が買ってあげた形に見えるのは確かだ。そこに警察の口利きはなかったのか。疑問を持つのは勝手だが、証明する手段は何もない。
ただ、長浜の近くに県庁・県警本部が移転することが本社より先に決まっており、本社の移転が明るみに出るとほどなく着工した。樋口社長は移転への社員の懸念に対しては県庁・県警本部に近いことを大義名分にしていた(確かに直線距離は近いが、間に運動公園があるために車はぐるっと回らねばならず実際には大して近くない)。県に慌ててくっついていく必要は何もなかったのだが。
県警幹部と社長が懇談の席で会うことは十分考えられる。ここからは全くの想像でしかないが、県警幹部が「どうですか、新聞社もこちらに来られては。いい土地がありますよ」なんて社長に言ったとしたら……。慎重な物言いが必要だが、何かよほど大きなきっかけでもないと、バブル経済崩壊直後に31億円(後々どんどん膨らんでいった)も払って人気のない土地を購入するなどあり得るだろうか。パチンコ業者にとってみればバンバンザイだろう。もちろん、県警本部移転=新聞社移転=パチンコ業者の土地、の間に何の関係もあるまい。ただの憶測、邪推である。樋口社長もすでに亡くなっている。
ところで、パチンコ業界といえば、北朝鮮への送金問題がある。前掲の溝口氏の本によれば、「合法、非合法のカネを含め、在日同胞が北朝鮮に送金した額は90年前後が最高で、年間4億㌦と推計してます。当時、日本円にして約600億円」(韓国在日機関の情報筋)だったらしい。
第1章で取り上げた、北が書いた連載「終わりなき旅路――鹿児島の朝鮮人強制連行」。社会部記者の肩書で書いているが、ヒラ記者ではない。デスクだったはずだ。デスクは記者に書かせるのが仕事で、自ら書くものではない。それをあえて破ってまで書かねばならなかったのか。
1992年は宮沢喜一首相による韓国への謝罪外交が有名だ。まさか、韓国・朝鮮への〝謝罪〟のために、新聞社がパチンコ業者の土地を買ってあげたと言うつもりはない。単なる妄想である。
私が勤めていたのは九州の有力地方紙。その県では圧倒的なシェアを誇っている。だから、そこの編集局長ともなれば地元では一目置かれる存在と言っていいだろう。
ところが私は、そんないい大人の編集局長にトイレの電気をわざと消されたことがある。
三階の編集局は南北百メートル、東西二十メートルという長方形のワンフロアで、中央と北端の二個所にトイレがある。中央のトイレは屋外に面した窓がないので、電気を消したらほんとうの真っ暗闇である。
私が大きな方の用を足そうとして個室に入ると、続いて局長が入ってきた。なぜ分かったかというと、強烈な香水の匂いがしたからである。局長は鼻が曲がるほど大量の香水をじゃぶじゃぶ身に振りかけているので、どこにいてもすぐ分かる。香水なんてのは耳たぶの後ろにちょんと付ければじゅうぶんであって、微かに香るからお洒落なのだ。周りの人間が鼻で息をすることもできないほどかけるもんじゃない。
局長はおかっぱ頭で腹の出たメタボ中年男だ。自分の不潔感を気にして香水を使い始めたのだろうが、あれだけかければ自分の鼻も利かなくなってどんどん使用量が増えていったのだろう。
局長は軽く小用を足してトイレを出て行くときに、パチッと電気を消していった。
あっと声も出なかった。
まだ私はズボンを下ろしてしゃがんだままである。
真っ暗闇で何も見えない。
そのあとはすべて手探りで動いた。
局長は私とほとんど間を置かず入ってきたし、中央のトイレに行くには遮る物のない長い廊下を通るしかないのだから、必ず私の姿を目撃している。だから、私が個室にいることを知っていながらわざと電気を切ったことは明らかだ。
それでも、こんなせこいことを編集局長がするか、いくらなんでもこんな子供じみた嫌がらせをするだろうか。そんな悪意を信じたくない気持ちもまだ少しあったのだが、しばらくしてまた同じことがあった。私のあとにあの強烈な香水の臭いとともに入ってきた人物が、出るときにまた電気を消していったのである。それではっきりした。
今度は私も「おい! 消すなよ!」とすぐに大声で叫んだが、そいつは何も答えず去っていった。私は真っ暗闇のトイレからほうほうの体で出ると、フロア中央の局長の机の前に行って睨みつけてやったが、ぷいとそっぽを向いて隣の席の次長に話しかけた。明らかに犯行後の犯人の態度だった。
以来、中央のトイレは避けて、北端の窓のあるトイレに行くようになった。
それからしばらくして私は50歳で会社を早期退職した。編集局長に二度も電気を消された「トイレ・ハラスメント」も腹に据えかねたが、もちろんそれだけで辞めたわけではない。36歳の時に赴任した地方支局での出来事が始まりだった。
私は退職後、ミステリー小説を書こうと思った。みっともないから自分の胸の内に秘め、会社の誰にも家族にも話したことがなかった数々の〝事件〟。それをフィクションという形に昇華して世に出そうと何年ももがいた。
とあるカルチャーセンターの「現役プロ作家が教える」小説教室を見つけ、車で1時間20分かけて通うようになった。一生懸命、プロットを考えた。
「こんなことがあったら、大スキャンダルですよ」
私が提出したプロットを小馬鹿にするように、作家が言った。「市長が新聞社の人事に影響力を及ぼしたとしたら、大スキャンダルじゃないですか」。言外に「そんなこと現実にはあり得ないでしょう」というニュアンスがある。
「例えば、こうしたらどうか」――作家は代替案を示し始めた。つまり、こんな現実離れしたプロットでは読者は付いてこない、リアリティーがないから変えろと言っているのだ。
(いや、実際にあったことなんだ……)
あとはもう、耳に入らなかった。そうか、あれは大スキャンダルだったのだ。何事も気づくのが遅い人間だが、20年も経ってから気づかされるとは。大スキャンダルという発想はなかった。個人的なパワーハラスメント(当時そんな言葉はなかったが)として受け取っていた。私ごとだから誰にも打ち明けなかった。しかし、理不尽な目に遭ったことを表現したい。フィクションとして昇華したいという切実な思いで苦しんでいた。
それが実は、スキャンダル=報道機関の不祥事という社会的な意味を持つものだったとは! コペルニクス的転換が起こった。プロの作家さえも現実とは思えないような、非常識な仕打ちに自分は遭わされたのだ。
ハラスメント
「ハラスメント」という言葉が定着したのは意外と遅い。特に地方では遅れたようだ。2000年代初頭にわが編集局内で初めてセクハラ事件が起きた時(デスクによる部員へのセクハラだからパワハラの要素もあった)、むしろ男のデスク側に同情的な見方があった。女のほうが嘘を言ってるんじゃないかというわけだ。女性陣でさえそうだった。今では信じられないが、まだその程度の認識だった。もちろん、的外れなことを何でもかんでも「セクハラだ、パワハラだ」と騒ぐのはいただけない(これを「ハラスメント・ハラスメント」と呼ぶらしい)。しかし、言葉(概念)があるかないかというのは当事者にとってはとてつもなく大きい。当時私は、どうして自分がこんな嫌がらせに遭うのか分からず苦しかった。今、それらを「ハラスメント」だと定義づけると腑に落ちる。解決にはならないが、呼び名があるだけで名状しがたい不可解さからは救われるのだ。そういう意味で本書ではまだそれほど定着していなかった時代を含めて「ハラスメント」という言葉を使っている。
第1章 支局勤務、本社からのハラスメント
某月某日 地元の祭り 局次長が支局を出し抜く
36歳の時、県南の港町の支局に配属になった。妻と小学校低学年の息子。家族3人で3年間暮らすこの町はどんなところだろう。県庁所在地以外で生活するのは初めてだ。
支局は事件事故も大事だが、日常取材の中心は行政・議会上の問題や、町の話題、選挙だ。管内は一市三町、警察署が二つ。一人で回らなければならない。地方支局こそが地方紙記者の醍醐味。一度や二度は行かねば一人前ではない。
夜が明けないうちから「新聞が来てない」という苦情の電話が来るし(「申し訳ありませんが、それは販売所に連絡してください」と答える)、休日には祭りやイベントが集中するので休めない。二十四時間三百六十五日、支局に縛り付けられる。
そのとき、北が社会部長だった。支社支局は組織上、地方部に属するが、事件事故については社会部が直接指示する。それは本来デスクの仕事だが、北部長自ら台風について電話してきた。南端の港町だから台風が真っ先にやって来ると決めつけている。
「そっちの様子はどうだ」
支局は町の高台にあって、母屋とは庭をはさんで渡り廊下でつながっている職住一体型だ。小ぢんまりとしたコンクリートの二階建ての一階が車庫で、二階に暗室を備えた仕事場がある(当時まだ自分でフィルムを現像していた)。高台の二階だから、海も港も窓から一望のもとに見渡せる。
「まだ何も。風もないし、波もありません」
すると、
「そんなはずはなか!」
と一喝だ。
「見てこい!」
社会部長は天気予報も見てないのか。台風はまだはるか南方海上にある。個人的な嫌がらせでなければ、天気図の基本も知らない馬鹿だ。
仕方がないので、一応車で港を見て回った。帰ってくると、私の不在の間にまた北部長から電話があって、様子を聞かれた妻が私と同様に答えると、また「そんなはずはなか!」と怒鳴りつけたという。
1年目はまだ、こんなもんで済んだ。港町は何より魚が驚くほど旨いし、子供も自然の中でのびのびと暮らしていた。平穏でさえあれば、田舎暮らしは悪くない。
北は次の年、編集局ナンバー2の局次長になった。
その日、管内の小さな海沿いの集落で秋祭りが行われた。京の祇園祭がはるばる伝わったもので、集落にある八坂神社から御神幸行列が練り歩くのだが、中でも十二冠女(かんめ)という晴れ着で着飾った少女たちがしずしずと歩く姿が一番絵になる。
しかし、気候の良い秋の休日にはイベントが集中する。その日も管内の各地で秋祭りが行われており、前の年に十二冠女の写真を地方面に掲載していたので、バランスを失しないよう別の地区の祭りに行った。十二冠女は町の広報課に後で写真をもらって地方面に掲載するつもりだった。支局は手が足りないので、よくやることだ。
ところが、翌日の紙面を見て目を疑った。
頭に賽銭箱を載せて歩く可愛い少女たちが、一面ど真ん中にカラーで大きく写っている。
十二冠女だ!
気が動転した。
その管内の全責任を任されている支局長にひと言の断りもなく、こんなことはあり得ない。
写真部だろうか。
写真部は紙面のビジュアル化の至上命令を受けて、毎日一面用のカラー写真を探し求めている。しかし、支局管内にやってくるときは必ず支局長に声をかける。今回はその一言を失念したか。
写真部に電話した。気持ちを抑えて聞いた。
「あの写真はそちらですか」
違った。
犯人は北だった。
北が休日にわざわざ会社に上がってきて、自分の撮ってきた写真を載せるように整理部(紙面を作る部署。のちに編集部と改称)に売り込んだという。
秋祭りに行ってみたら支局長の姿が見えないからといって、記者ではない局次長が取材したり原稿を書いたりすることはない。ましてや支局長には当然、縄張り意識がある。それを百も承知の北が踏みにじって、地元の支局長にはひと言の断りもなく自分の撮った写真をその日の一面の写真にゴリ押しして入れることなどあり得ない。それを敢えてしたのだから、私に侮辱を与える目的の行動であるのは明らかだ。編集局全体に対して私に恥をかかせるためだけにやったことだ。
これほどの悪意を見せつけられたことは会社に入って以来なかった。なぜ?なぜ?自問自答するばかりだった。
支局に出てみてようやく、世の中には七人の敵がいるという言葉の意味が分かった。しかも、社外よりむしろ社内にいるのだということを。
某月某日 市長が社長に申し出 支局長を代えてくれ
私が赴任した時、今村市長は2期目だった。
その前が3期12年務めた名物市長のTだった。アイデアマンで、空港や美術館を造った。
この港町は県の南端で、北辺にある空港が遠い。ならいっそ飛行機で結べば市民に便利だという発想だ。国内初の地域空港(コミューター空港)として開港する運びとなった。美術館は林野庁の木造施設建設促進事業を使って、支局にほど近い公園に建設した。全国公募美術展を2年ごとに開催し、港町に文化の風を吹かせてきた。
Tが引退を表明して、町の有力者たちは後継者選びに入ったが、港町は「コップの中の嵐」で政争が激しい。誹謗中傷の飛び交う中から候補者を一本化するのは困難だった。地元で選ぶのは難しいとTが見つけてきたのが今村だ。東京で大手リビング新聞の編成局長をしていた。長く故郷を離れていた〝落下傘候補〟のほうが皆もまとまりやすいとのアイデアだ。中央とのパイプも期待されて、有力者たちも決着へと傾いていった。
こうして今村は無投票で初当選した。その後の人事では行政の要である総務課長の中原が助役に抜擢されるとみられていた。ところが、助役と収入役にはあまり仕事はできそうにない、ひどく年寄りじみた二人が選ばれた。何かと直言してきそうな中原は敬遠され、近隣の一市三町でつくる広域消防組合の消防長に左遷された。今村は口出しされるのが嫌いな人間だったのだ。この人事が後々、禍根となる。
今村の就任早々、前市長T肝いりの地域空港が開港するが、翌年、Tは自殺した。市長在任中の公共工事をめぐる贈収賄事件を県警が捜査し、当時の助役や地元の建設会社社長らが相次いで逮捕された。T本人にも捜査の手が伸びるのは時間の問題と思われていた。
Tの自殺について町の人たちは決してよそ者には語らないが、当時の新聞報道を見ると、家族に「釣りに行く」と言い残して外出し、隣町の山中で亡くなっているのが発見された。車の近くで、自ら腹を切り、さらに首を切って命を絶つという、凄惨な最期だったという。
地域空港の利用者は思うように伸びず、毎年、赤字が累積した。施設維持費用は年間8千万円かかる。当然、市議会では大問題となる。ちょうど私が赴任した4月から特別委員会が設けられ、市長はけちょんけちょんに言われていた。私は当然、がんがん新聞に書いた。
基本的に行政は批判しなければ新聞記事の体を成さない。これはしようがない面がある。例えば、県や市が予算を発表する。「素晴らしい予算だ!」では新聞記事にならない。広報紙だ。どこかしら穴(問題)を見つけ、問題を指摘し、批判し、提言しなければならない。
私としては本社でやってきた報道姿勢をこの町でもやったというだけなのだが、ここでは支局長の顔や言動を誰もが恐ろしいくらい知っている。別に私がケチをつけているわけではない。議会が、議員が市長にケチをつけているのだ。これを取り違える人が多い。マスコミが文句を言っていると受け取るのだ。発言している本人でなく、報道するマスコミが恨まれる。しかし市長は新聞社出身なのだから記者の仕事については分かっていると私は思っていた。
支局2年目の年度末のこと。
県庁所在地の本社であった支局長会議の後、編集局長に呼び止められた。このときの局長は文人タイプの人だった。
会議室に二人残り、怪訝な顔を浮かべる私に局長が聞いた。
「どうだ、支局は」
「ええ、だんだん慣れてきました」
厭なことばかりあって塞いでいる、とは口が裂けても言いたくない。
局長はうんうんと頷くと本題に入った。
「市長とはうまくいってるのか」
馬面の大男の姿が頭に浮かんだ。今村は一見ぬぼーっとした印象だが、眼鏡の奥の目は冷たい。人を食ったところがある。東京で業界紙の編集長(実際は編成局長)をしていたというので、同業かと最初は親しみを持ったが、会ってすぐに取っつきにくさを感じた。
「うまくいってるも何も、是々非々ですよ。ただ、空港問題でがたがたですね。市議会では明けても暮れてもそればかりです。市長はいいかげん廃止で着地したいんでしょうが」
赴任した時から空港が市政最大の問題になっていた。市議会は「採算が合わない」「料金が高い」と文句ばかり。市長はもう投げ出したいと考えているようだった。
局長は腕組みをしてじっと机の表面を見つめてから口を開いた。
「市長がうちの社長に申し入れてきたそうだ」
「何をですか」
「市長は大学で社長の一つ二つ上の先輩でね、サークルも一緒だったらしい」
「それで」
「支局長を代えてくれと」
目の前が暗くなるとはこのことか。
市長が新聞社の人事に口を出す?
市長も憎いが、拾田社長はもっと憎い。自分の社の人間を守ることなく、はいはいと市長の言い分を聞いたということではないか。勝手な市長の言い草など撥ねつけてほしかった。またしても意味の分からない悪意によって、私は絶望に突き落とされた。
「どうする。本社に戻るか、支局長を続けるか。君次第だ」
何なのだ、これは。局長は選ばせてやると親切に言っているつもりか。
「どういうことですか」
いつもは淡々としている局長が困った顔をした。
「私もよく分からないんだ……。社長はそう伝えてくれというだけで」
頭が混乱する。
これはおかしい。しかし、声を上げたら、自分は皆から〈市長に嫌われた支局長〉の烙印を押される。恥と義憤を天秤にかける。
「市長に嫌われて支局生活を続けるのはつらいだろう?」
市長とは気が合うタイプではないが、そこまで嫌われているとは想像していなかった。反市長派の愚痴を聞いていたから? 市長選は来年、私が支局を離れてからの話だが、そこへ向けた動きに注視するのは支局の最重要な仕事の一つじゃないか。
答えは二択。退くか、残るか。どっちだ。「少し考えさせてほしい」という選択肢はない。きっと社長と市長は手ぐすね引いて答えを待っている。
焦った。人生の大事な選択なのに一刻の猶予もない。
今村の顔はもう見たくない。しかし、しっぽを巻いて逃げ帰るのは屈辱だ。かと言って本社に戻って、社長の顔を見るのも苦痛だ。退くも地獄、残るも地獄。
結論は出た。
「支局に残してください」
局長は頷いた。
「それがいい。あと一年頑張れ。社長にはそう伝えておく」
第2章 市長選対立候補の不可解な死
某月某日 墜落したセスナ 行方を消した乗客
今村市長は大学時代の後輩である拾田・新聞社社長に支局長を代えてほしいと訴えた。そんな馬鹿げた話(某作家に言わせれば大スキャンダル)が実際に編集局長の元まで下りてきて、局長は私に本社に帰るか支局残留か二者択一を迫った。私は異動を断り、残り一年を歯を食いしばって耐えたのは前章に書いたとおりだ。
3年間の支局生活を終えるにあたっては特に希望も出さなかった。本社の編集部に戻ることになった。編集部というのは、取材部の記者が書いた原稿に見出しを付けレイアウトする部署で、自ら記事を書くことはない。編集部が好きな人もいるが、記者志向の人間には閑職を与えられたようにも感じる。
3月、次の支局長となる柏木に業務を引き継いだ。
私より5歳下。中途採用で入って7年目だという。これまで一緒に仕事したことはなく、このとき初めて顔を合わせたと言っていい。私は無念さが胸に渦巻いていたため、引き継ぎ以外の世間話はろくにしなかった。柏木は私と違って、如才ない男だった。
しかし、後に驚愕の事実を知った。
柏木は今村市長と同じ大手リビング新聞の出身だった。しかも同じ編成局の上司と部下だったのだ。
さらに、今村が市長選出馬のためにリビング新聞を辞めたのと時を同じくして柏木も辞めて、うちの新聞に転職しているのだ。
これはどういうことだ!?
気に食わない私を途中交代させるのは失敗したものの、市長は旧知の拾田社長と企んで、自分の子飼いの人物を支局長として手元に置いたのだ!
そこまでやるか! これは本当に大スキャンダルだ。
(ちなみに柏木はその後、順調に出世し、編集局長から取締役に昇進した。そして筆頭取締役の専務となり、遂に先月、社長となった)
世の不条理を感じながら淡々と編集の仕事をこなしていた私に、またショッキングなニュースが飛び込んできた。その年の11月のことだった。
立島(たてじま)の飛行場で、軽飛行機が離陸直後に墜落したという。
立島は私が3月までいた港町の対岸40キロにあって、天気の良い日は肉眼で見える。周囲20キロほどの小さな島だ。港町の地域空港から軽飛行機なら20分で到着する。近海の4つの島で村を形成しており、港町とは行政単位が異なる。
正午ごろの事故だったため、夕刊に入れるにはギリギリの厳しい時間帯である。だが毎日のように起こる車の事故と違い、飛行機事故となるとニュースバリューは格段に上がる。どうしても入れたい。出稿部の社会部と受け手の編集部がバタバタしてるのを横目で見ていたので、夕刊の刷り出しが配られると早速、夕刊社会面を開いて見た。腹(真ん中のこと)にどーんと5段見出しで突っ込んである。記事は短くとも扱いは大きく、がツッコミの流儀だ。
村役場によると、軽飛行機にはパイロットと乗客の二人が乗っていたが、けがはないもよう。機体は大破したという。しかし、最後に不可解なことが書いてあった。「パイロットは同村役場の職員に電話を通じて『客ともみ合いになり、軟着陸した』と話している」というのだ。
夕方の地元テレビニュースでは、乗客は「無事」から「行方不明」に変わった。
機体は滑走路から10メートルほど外れ、北側の草叢に墜落した。尾翼はぽっきりと折れ、主翼もあちこちが破損していた。パイロットも乗客も無事だったが、乗客は墜落後に現場から立ち去り、行方不明になっているというのだ。パイロットの証言によると、乗客が操縦を妨害して機は墜落したのだという。そのため精神状態を疑われたのか、警察発表では乗客は匿名だった。
翌日の朝刊では、うちの新聞とは違い、新報(前章参照)は匿名でありながら男性の詳しい横顔を載せていた。新報は何でもかんでも見境なく詳しく書くので、資料として見るときはうちの新聞より役立つ場合が多い。その点ではその後、業績不振で廃刊になったのは残念だ。
「男性乗客は元市役所の幹部職員で、今年八月には報道陣に対して来年一月に行われる市長選に立候補することを表明していた。最近では選挙活動に向けての活動も活発に始めていた」
愕然とした。元消防長の中原さんではないか!
記事には続けて、「あけぼの航空(これが地域空港の運航会社だ)の事務所によると、十月ぐらいから頻繁に同社を訪れ、『空から広域的な行政を考える』と話し、遊覧飛行やチャーター便などを利用していたという」とあった。
私は支局最後の3月の記者コラムで、「新しい広域の発想」と題して、あけぼの航空のセスナ機による港町と立島とのつながりを提言していた。
中原さんは私の提言を考えてくれていた!
市長選に向け、2日後には決起集会を開く予定だったという。それなのになぜ自殺行為を図ったのか。
「中原さん、どうしてこんなことを!」
私は心の中で叫んだ。
第3章 社屋移転へ、金をドブに捨て続ける悪循環
某月某日 新社屋の用地 パチンコ屋から破格で購入
実は、私が港町の支局へ赴任する1年半前から、わが新聞社はおかしなことになっていた。
その年9月11日。すべては唐突な発表から始まった。私はひそかに〝新聞社の9・11〟と呼んでいる。
当時の樋口社長が、新社屋建設のための用地取得交渉に入っていると発表した。
発行部数や頁数、カラー紙面の増加に対応できる最新鋭の輪転機が物理的な問題で搬入・設置できないため、新社屋あるいは新工場を建設する必要があるという方針は前々から出ていた。ただし社員は皆、現有地での拡充、建て替えを想像していた。市役所や中心街に近くて市内交通の起点になっており、移転する選択肢は少しも頭になかったのである。
ところが、社長が発表したのは、人気がなくてどこもかしこも売れ残っている長浜の埋立地だった。
私はすぐに「それはダメだ!」と仰天した。
まだ20代の社会部記者だった頃、夏に大きな台風がこの町を襲った。台風一過の一コマを拾うために私は長浜へ向かった。
その記事には「風雨とともに亀来訪」「思わぬ置き土産」という見出しがついた。
「台風の高波にのって〝海の使者〟が訪れた。長浜一帯には、タイやタコからカメまで打ち上げられ、思わぬ台風の置き土産に、後始末に追われる人たちもひとときほほえんだ。
長浜一丁目の家具店従業員が店の内外の掃除や浸水のくみ出しをしていると、駐車場にできた水たまりに、三十㌢余りの魚が五、六匹スイスイ泳いでおりビックリ。さらに大きなタコまで出てきて『これはすごい』と掃除を続けていると、『まだ何か大きいのがいるぞ』との騒ぎに駆けつければ浦島太郎に出てきそうなウミガメだった。
また長浜二丁目の道路上にはレンコダイがピチピチ跳ね、近くで片づけをしていた人たちがそそくさと持ち帰った」
ウミガメとタコの写真が付いている。こんな海岸の埋立地に社屋を建てようなんて、正気の沙汰ではない。
しかし、会社の動きは早かった。
発表直後の10月1日には新社屋建設の方針を打ち出した冊子を全社員に配布した。莫大な投資をしてわざわざ不便なところに移るというのだ。もちろん組合は反発したが、社長は「これは経営権の問題であって、労使協議事項ではない」と突っぱねた。
突っぱねたのも道理で、用地取得交渉中どころか社長はもう勝手に契約書を交わしていた。その年が明けるとすぐ長浜一丁目の土地を取得し、所有権移転登記を完了した。これでは反対しようもない。
2千坪で31億円余り。坪当たり160万円近い破格の値段だった。購入相手はDというパチンコ業者。
溝口敦『パチンコ「30兆円の闇」』(小学館文庫)によると、樋口社長が突如移転を発表した年はちょうどパチンコ業界にとって大きな転換点となっている。警察が暴力団に代わって業界を取り込んだというのだ。
同年3月、暴力団対策法施行。8月には初のCR(カードリーダー)機導入。この二つは、警察による暴力団からのシマ捕り、利権確保の二正面作戦だったという。「暴力団の代わりに誰が業界に入ってきたのかといえば、警察OBですよ。警察がギャンブル性アップを認めてパチンコからヤクザを追っ払い、自分の縄張りに取り込んだ。そのあげくが〝パチンコ狂い〟の続発」と警察官出身者が憤慨する。
さらに詳しく見れば、パチンコ店の営業許可はもちろん、店のパチンコ機に違法がないかどうかは所轄署の生活安全課が見る。売り出す前のパチンコ機やパチスロ機は警察庁の外郭団体が試験、検査する。あげくOBはパチンコ業界に再就職する――という仕組みらしい。
警察がパチンコ業界を掌握したこの年に、パチンコ業者が持て余していた人気のない土地を新聞社が買ってあげた形に見えるのは確かだ。そこに警察の口利きはなかったのか。疑問を持つのは勝手だが、証明する手段は何もない。
ただ、長浜の近くに県庁・県警本部が移転することが本社より先に決まっており、本社の移転が明るみに出るとほどなく着工した。樋口社長は移転への社員の懸念に対しては県庁・県警本部に近いことを大義名分にしていた(確かに直線距離は近いが、間に運動公園があるために車はぐるっと回らねばならず実際には大して近くない)。県に慌ててくっついていく必要は何もなかったのだが。
県警幹部と社長が懇談の席で会うことは十分考えられる。ここからは全くの想像でしかないが、県警幹部が「どうですか、新聞社もこちらに来られては。いい土地がありますよ」なんて社長に言ったとしたら……。慎重な物言いが必要だが、何かよほど大きなきっかけでもないと、バブル経済崩壊直後に31億円(後々どんどん膨らんでいった)も払って人気のない土地を購入するなどあり得るだろうか。パチンコ業者にとってみればバンバンザイだろう。もちろん、県警本部移転=新聞社移転=パチンコ業者の土地、の間に何の関係もあるまい。ただの憶測、邪推である。樋口社長もすでに亡くなっている。
ところで、パチンコ業界といえば、北朝鮮への送金問題がある。前掲の溝口氏の本によれば、「合法、非合法のカネを含め、在日同胞が北朝鮮に送金した額は90年前後が最高で、年間4億㌦と推計してます。当時、日本円にして約600億円」(韓国在日機関の情報筋)だったらしい。
第1章で取り上げた、北が書いた連載「終わりなき旅路――鹿児島の朝鮮人強制連行」。社会部記者の肩書で書いているが、ヒラ記者ではない。デスクだったはずだ。デスクは記者に書かせるのが仕事で、自ら書くものではない。それをあえて破ってまで書かねばならなかったのか。
1992年は宮沢喜一首相による韓国への謝罪外交が有名だ。まさか、韓国・朝鮮への〝謝罪〟のために、新聞社がパチンコ業者の土地を買ってあげたと言うつもりはない。単なる妄想である。
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