「神風連の乱」は想像と違った2018/05/07

教科書では、「不平士族の乱」と一緒くたにされている。

1874年 江藤新平の佐賀の乱
1876年 熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、山口で前原一誠らによる萩の乱
1877年 西南戦争

しかし、昨日、熊本市中央区の桜山神社(神風連志士列墓、神風連資料館)を訪ねて、強烈な〝違和感〟を覚えた。

これまで訪ねて来た、他の乱とはどこか違うのだ。
それは何か、考えてみた。

征韓論で政府が紛糾し、明治六年(1873)政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野した。
新政府に批判的な不平士族たちは西郷の決起に期待した。
今か今かと待ち続けたが、西郷がなかなか立たず、待ちかねたようにあちこちで乱が起きた。
そして最後に西郷は立ち、官軍と壮絶な戦いの末、薩軍は壊滅し、不平士族の乱は終わった。

これが大方の理解だろう。つまり、西南戦争以前の士族の乱は、西郷・薩摩の決起を期待して起こされたものだと。

ところが、神風連の乱は、西郷隆盛とは全く関係がないのだ。

熊本では、明治政府への強い不満を抱く者たちにより、「敬神党」が結成された。
神道の信仰心が非常に強かったため、周囲からは「神風連」と呼ばれていた。敬神党の構成員は、多くが神職に就いており、新開大神宮で「宇気比」(うけい)と呼ばれる誓約祈祷を行い、神託のままに挙兵したのである。

「不平士族の乱」と言っても、ずいぶん事情は違う。

考えてみれば、西郷さんは岩倉使節団の留守政府で、実質のトップとして新政府の改革をほとんどすべて一人で行ったのだ。

下野したからと言って、自分がやったことを全否定するはずもない。
「政府に尋問の筋これあり」という、西郷暗殺計画を問いただすためのものだった。
馳せ参じる兵士が多すぎたため、出陣としか見られず、戦端が開かれるべくして開かれたのだ。

海音寺潮五郎が描いた「朝鮮の役」2018/05/07

海音寺潮五郎『加藤清正』は、豊臣秀吉の朝鮮出兵についてかなり詳しく描いている。
この類の歴史小説を寡聞にして知らなかった。

荒山徹『高麗秘帖 朝鮮出兵異聞 李舜臣将軍を暗殺せよ』なんてエンタメは読んだことがある。内容はあまり覚えていない。
裏表紙の要約を見ると、「文禄元年(一五九二)、太閤秀吉は二十万の大軍を朝鮮出兵させ首都漢城(ソウル)、平壌(ピョンヤン)を占領した。が、朝鮮水軍を率いるたった一人の将軍によって撤退を余儀なくされた。その名は李舜臣」とある。
まるで、日本軍を撤退させた〝英雄〟のような持ち上げ方だ。
さらに「五年後、雪辱に燃えて再出兵した藤堂高虎は、舜臣を暗殺すべく忍びの者を派遣。一方、無益な戦を憎む小西行長は舜臣を救うべく使者を送った!」とある。

海音寺の『加藤清正』は、清正と小西行長との対立にかなり紙幅を割いている。

また、山本博文という、人気の歴史学者がいる。
その著『島津義弘の賭け』には、義弘の「朝鮮での苦闘」について詳しく書いてある。

しかし、さすが東大教授。ひどい自虐史観である。
「朝鮮侵略軍の動向」など、「侵略」の連発。
ご丁寧に地図にもわざわざ「朝鮮侵略全体図」と銘打つ。

対して、海音寺は「朝鮮政府はこれまでの悪政によって民にきらわれている」「清正軍を解放軍、自国軍を圧制者と見て、清正軍を歓迎した」と書く。

日支事変で、共産党と結んだ蒋介石軍の非道を中国の民衆が嫌い、規律を守る日本軍を歓迎したのと全く同じである。