青山繁晴議員経由で自民党員となりました2022/10/13

自由民主党の党員証が届きました。

しばらく前に来ていたのですが、今日久しぶりに青山繁晴さんのfb投稿を見て思い出し、共感を込めてupしているところです。



党員となった動機については本ブログ7/14付「次できることは国葬だ」を、青山繫晴さんについては8/5付「『薩摩人民共和国』の恐怖」をお読みください。

政治について色々と思うところがあり何かやりたいが、やる方法が分からないので取りあえず青山さんに頑張ってもらおうという人は党員になってみてはどうでしょうか(私がそうです)。

青山さん経由で党員になることによって、青山さんの党内での発言力が高まります。
後援会も支持団体も持たない主義の青山さんにとって、それだけが政治活動の原動力です。
(党員証が大阪府連から来るのは青山さんが兵庫出身だからです)

青山繁晴事務所を検索すれば申し込み方法が分かります。

拉致―メディアの不作為2022/10/13

南日本新聞夕刊一面の「思うこと」(今はもう夕刊はない)。

エッセー欄であるから、ふつう生々しい事件が題材になることはない。

この日、平成14年(2002年)11月9日付の「思うこと」を読んで驚いた。

吹上浜で「拉致」されかけたというのである。

筆者の家は吹上浜の近くで、よく貝殻拾いに行ったという。
10年余り前(1990年頃か)の晴れた日、一人で松林に車を停めて浜に出ると、はるか沖に船が一隻見えた。
珍しかったので気になったが、波打ち際の貝殻の所へ行った。

すると、海から「おかしな暗号のような短い、三言、四言が罵声のように耳に飛び込んできた」。

「拉致」という言葉が浮かび、砂浜を7、80メートル駆け戻った。
丘の上に登り切った時、後ろを振り返って震え上がった。
はるか沖にあった船がもう波打ち際に来ていて、人影もあった。

今度は車まで丘を駆け下りた。

このエッセーが掲載された2002年。
日朝首脳会談で北朝鮮が日本人拉致を初めて認めた謝罪した。
10月15日は拉致被害者5人が帰国した。

それで筆者は10数年前の特異な体験を思い出し、「思うこと」に書いたのは間違いない。
しかも吹上浜は鹿児島のカップルが昭和54年(1979年)に拉致された場所である。
その10年ほど後にも北朝鮮の工作船が吹上浜に来ていたとすれば、大スクープである。

しかし、私を含め、南日本新聞記者の誰も、この驚くべきエッセーを追加取材、補足取材しようとはしなかった。拉致問題が大きく動いた直後にも関わらず!

いみじくも今年は日朝首脳会談から20年。
昭和55年に産経新聞が拉致問題をスクープしながら、他のメディアは黙殺した。
だから、スクープした元産経記者の阿部雅美さんは「拉致問題はメディアの問題でもある」という。
「怠慢だったのは、政治家や官僚だけではない。不作為、つまりやるべきことをやらなかったという意味で、報道各社も『報道しない』という〝大誤報〟を繰り返した。1回だけではなく、何度も」

まさに「思うこと」を黙殺したのも、メディアの不作為だった。

サッカーと日の丸2022/10/13

ツイッターで初めて1000を超える「いいね」をもらいました。


来月からW杯カタール大会が始まります。
ウクライナで戦争が続く中で行われる今大会はどんな国歌斉唱になるのか、一つの注目点かもしれません。