朝鮮半島の興亡2023/02/11

532年、金官加耶は新羅に降る。

さらに562年、大加耶も新羅に降伏し、加耶は朝鮮半島から姿を消した。

それからおよそ100年後、百済も日本の支援もむなしく例の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に滅ぼされるわけだが、その戦勝記念碑が残っているとは知らなかった!

はっきり「大唐平百済国碑銘」と読める。
つまり、大唐が百済国を平らげたという碑銘だ。

九博4F文化交流展示室に展示中。


ちなみに、加耶が滅んだ後、日本はどうしてたかと言うと、その時代に活躍したのが聖徳太子だ。

新羅の力が強くなるにつれ、高句麗や百済は日本と友好を求めるようになった。

600年、太子は加耶の再興を名目に新羅征討の軍を起こし、5つの城を攻略する。新羅は降伏し、朝貢を約束した。

602年、太子は再び新羅を討つため、弟の来目皇子を将軍に任じ、2万5千の軍勢を向かわせる。
だが、皇子が九州で死んでしまう(糸島半島に来目皇子遺跡がある。ここもいつか訪ねたい)。

翌603年、もう一人の弟、当麻皇子を将軍に任じたが、皇子は妻の死を理由に飛鳥に引き返してしまい、再び遠征計画は中止となった。

聖徳太子は並行して隋との関係強化を図った。
これが遣隋使である。
600年から614年まで6回派遣したといわれている。

しかし、こうした聖徳太子の業績はなぜか日本の歴史から消されようとしている。

九博の展示室にも、聖徳太子の「し」の字もない。
アジアとの交流をテーマにしながら、遣隋使は飛ばして遣唐使だ。

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