記紀による任那の歴史2023/02/13

浅学非才の身ながら、日本書紀と古事記によって任那の歴史をピックアップしてみます。
加耶展の「加耶の歴史」と参照すると面白いでしょう。

まず10代崇神天皇から始めます。

崇神は初代神武と同じ、ハツクニシラス(初めて国を治めた)すめらみことと言われます。
つまり神武から9代までは大和地方で力を蓄えていった基礎の段階で、崇神は即位10年で四道将軍を派遣して全国平定を推進します。
同12年には戸口の調査を命じ税を課しました。これも重要ですね。

これが3世紀前半~半ば頃。
北部九州では卑弥呼の時代です。
東からの圧迫をひしひしと感じた卑弥呼は239年、魏に使いを送り、親魏倭王の称号を受けます。
こうして卑弥呼と崇神が直接激突することはありませんでした。

卑弥呼は247年、かねて仲の悪かった南の狗奴(熊)国と開戦。その戦いの中で亡くなります。
卑弥呼が戦死だったか自死だったのかは、1/2付「卑弥呼についてのまとめ」をご覧ください。

邪馬台(大)国が滅んだ3世紀後半から4世紀になると、九州でも大和の象徴である前方後円墳がばんばん造られるようになります。

崇神65年、任那国がソナカシチを遣わして朝貢してきます。
これは狭義の任那で、このころ出来たばかりの金官加耶です。
魏志倭人伝の狗邪韓国です(クヤ→カヤ)。

崇神が68年に崩御して、垂仁天皇2年にこのソナカシチが国に帰りたいと言うので、赤絹百匹を持たせて任那の王へのみやげとした。
ところが新羅人がこれを奪った。
これが任那と新羅の争いの始まりだという。

別の説では、ソナカシチが大加羅の王の子、角鹿(つぬが)アラシト(額に角が生えていた)に変わっている。
アラシトは到着直後に崇神が崩御したため、垂仁に仕えて3年たった。
帰りたいと言うので垂仁は「お前が道に迷わなかったら先皇にも会えたことだろう。だからお前の国の名を改めて、ミマキイリ彦(崇神天皇)の御名を国の名とせよ」と命じた。
それでその国の名をミマナという、任那の由来の話になっている。

ちなみにこの大加羅はのちの大加耶ほど発展しておらず、高霊加羅と思われる。
つまりこの二つの話は、金官加耶、高霊加羅が次々と天皇に服し、狭義の任那から広義の任那に広がっていく過程を示しているといえよう。

長くなってきたので、稿を改める。

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