国家的危機に何をすればいいのか2022/04/01

細谷雄一慶大教授が一昨日の産経新聞一面に、「日本の世論で『ウクライナが降伏すべきだ』との意見が強いのは驚きだ」と書いていた。

本当は世論ではなく、橋下徹のことなんだろうが、名指しを避けたのだろう。

降伏論が出てくる背景として、主に2点を挙げている。

まず、戦後の平和教育の悪弊。これはその通りだろう。

もう一つは、戦後の米国による日本の占領は平和的で協調的なものだったため、ウクライナがロシアの占領下でも平和に生存していけると考えるからだという。
これも概ねその通りだろう。

ただ、どうして米国の占領が「平和的で協調的」だったのかは、少々付け加える必要があるだろう。

日本占領の最高司令官が、実際に日本との激しい戦いを経験したマッカーサーだったことが大きい。
マッカーサーは日本軍の強さを十分に知っており、その精神的支柱であった天皇陛下がどんな人物か興味津々だっただろう。

マッカーサーはどの国の指導者もそうであるように、天皇が言い訳をして責任逃れをすると思っていた。
ところが、陛下は自分がすべての責任を負うので国民を助けてほしいと言われたのだ。
マッカーサーは驚いて、この天皇を廃してしまっては日本の統治は絶対にうまくいかないことを悟ったのだ。
こうして急ぎ新憲法草案をまとめ、天皇の地位を保証したのだった。

もしソ連や中国が占領の責任者だったらこうはいかなかった。
天皇制は廃止され、日本は分割統治されて、いまだに占領されたままだっただろう。

つまり、ここだ。
ウクライナがロシアに降伏したら、国土はもう返ってこない。

これは他人事ではない。
中国は今、台湾・尖閣を狙っている。
ロシアも北方領土の実効支配を進め、完全なる自国領だと宣言するだろう。
それどころか、中国とロシアは共同して北海道に攻め入るだろう。
その布石はすでに進んでいる。
中国人は北海道の土地を買い漁って、そこは実質的に治外法権となっている。
ロシアはアイヌ人を救うという荒唐無稽なストーリーをでっち上げようとしている。

また、ロシア・中国の友好国である韓国・北朝鮮は日本のマスコミや政界に浸透して日々、反日プロパガンダをおこなっている。

ウクライナ問題は明日の日本なのだ。
この国家的危機に何をすればいいのか。
記者を長年やってきたものの、政治活動などは未経験。
何かをしたいが、残念ながらやり方が分からない。
有志の方に教えてもらいたい。

2拠点生活2022/04/01

ツイッターで知ったのだが、新聞社の後輩(と言っても付き合いはない)が東京と鹿児島との2拠点生活をスタートするという。

3月7日付「2拠点生活」に書いたように、①経済的な問題②その拠点で何をやるか(やることがないと意味がない)――この2つを解決しないと続かない。

ツイートの写真と文章によると、スカイツリーを見下ろす場所という。都心のマンションだ!
故郷鹿児島のスポーツを盛り上げるために頑張るという。

彼も結構いい年のはずだから、昨日で定年だったのかな。
それか数年残しての早期退職か。
そうじゃないと、会社員のままで東京との2拠点生活はできないからね。

独身だったかな?
それならそれなりに使えるお金はあるだろうが、でも都心のマンションとなるとね…

仕事は決まっているのだろうか。
それとも私のように気ままにやるつもりか。
いろいろと注目だ。

※エープリルフールでした。くそー、見事にだまされた!

私も退職金減らされてたよ2022/04/07

古代史における自虐史観2022/04/17

古代史を勉強していると、進んだ技術は何もかも朝鮮半島から伝わってきたことになっている。

例えば弥生時代を特徴づける三つ。

水田稲作
弥生土器
青銅器・鉄器

すべて朝鮮から教えられたことになっている。

丸木舟しかない時代に、わざわざ対馬海峡を渡る危険を冒して、技術指導の人たちがそのつど日本にやってきたのか。

とてもあの半島の人たちがそんな親切だとは思えない。
わざわざ伝えに来てくれた可能性はゼロだと思う。

日本では長い長い縄文時代(約1万2千年前~紀元前4世紀ごろ)の間にかなり高度な文化を築いていたことが知られている。
縄文土器や土偶に代表される。

これが内在的に弥生土器に発展したとみるのが自然だ。
何しろ基本的な作りは同じなのだ。
わざわざ朝鮮半島から〝新しい上質な土器〟が伝わってきたと見る必要はない。

稲作にしたところで、コメそのものは縄文時代前期(約6千年前)の土器から検出されている。

陸稲から長い時間をかけて、日本人が水田稲作へと磨いていったのは間違いない。
その証拠に、稲作が伝えられたとされる時期の朝鮮半島南部には水田はあまり発達しておらず、畑作の遺跡の方がずっと多いという。

それに比べて日本最古の水田が見つかっている菜畑遺跡(唐津)や前畑遺跡(福岡)では、すでに水田の整地がきちんとされ、水を引く水路も立派なものが作られているのだ。
これでも朝鮮半島から伝わってきたとゴリ押しするのだろうか。

以上、土器や稲作は日本独自に培われた技術と考えてよい。

残る金属器はどうだろう。
これも朝鮮半島からわざわざ伝えに来てくれたことはあり得ない。

ただ、日本人が中国に渡って、向こうの技術を参考にしたり学んだりする機会はあったと思う。
紀元1世紀には日本と中国との交流が始まっているからだ。

のちの遣唐使船でさえなかなかたどり着けなかったのに、どんな船で行ったのかは謎だが、とにかく行っているのは確かだ。

有名なところでは、紀元57年に奴国が使いを出して漢の皇帝から金印をもらっている。

また、239年には卑弥呼が魏に使いを送って、金印や銅鏡100枚をもらっている。
ただ、これとても200年間にわずか2回では製銅や製鉄の技術をきちんと学んだとはとても言い難く、わずかに見学したものを帰国してから日本人が技術を磨き上げて、あの見事な銅剣や銅矛、銅鐸に作り上げたのは間違いない。

さらに時代が下って、663年の白村江の戦いの後、日本は唐・新羅に対する防衛のために水城や大野城・基い城といった巨大な施設を次々と造るわけだが、これも亡命百済人の指導で造られたとされて「朝鮮式山城」と呼ばれている。

確かに日本書紀には亡命百済人の高官2人の名前が出ている。
しかし、これは唐・新羅の戦法に対処するためのアドバイスを受けただけだろう。

何しろ日本はすでに仁徳・応神天皇陵という、世界最大の墳墓を造成する土木技術を持っていたのだから、築造自体に学ぶことはない。

その証拠に、調査した専門家によると、大野城は統一基準のもとに施工されたのではなく、さまざまな技術者・集団の動員が行われたことが分かるという。

以上、時代を画する技術はすべて朝鮮半島から伝わってきたというのは、単なる学者の自虐史観による思考停止であると断言する。

悔しい思い出2022/04/20

昭和天皇は戦争を指導したか?2022/04/24

ウクライナ政府の公式アカウントが昭和天皇とヒトラーとムソリーニの顔を並べて、「ファシズムとナチズムは1945年に敗北した」と発信したというのでちょっとした騒ぎになっている。

しかし、日本人の中にも「表現の不自由展」と称して、昭和天皇の顔を燃やして侮辱するような馬鹿者がいるから、世界にこんな誤解が広まるのだ。

そこで、あらためて昭和天皇が先の大戦時にどういう立場でおられたか、つまり国家や軍を指導する立場におられたのかどうかを見てみたい。

まず、昭和3(1928)年6月4日、関東軍参謀の河本大作大佐らが張作霖を奉天近郊で列車ごと爆破したときのこと(このとき天皇は27歳)。

田中義一総理大臣は天皇に対し、この事件は甚だ遺憾で、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表するつもりだと説明した。
ところが、閣議では、日本の立場上、処罰は不得策だという意見が強かったため、田中は天皇にこの問題はうやむやのうちに葬りたいと言ってきた。
天皇は、それでは前と違う、辞表を出すようにと厳しく言った。
このため田中首相は辞表を提出して総辞職した。

この一件は、昭和天皇が軍の暴走に反対だったことを示すものだが、天皇自身は首相に辞表を提出させたことを反省し、これ以降は内閣が上奏して来たものは内心反対でも裁可を与えることを心に誓った。

しかし、その後も軍の暴走は続き、天皇は黙ってばかりもいられなかった。

昭和7(1932)年1月28日、上海で共同租界警備の日本海軍陸戦隊と中国十九路軍との間に戦闘が勃発した(いわゆる第一次上海事変)。

天皇はこれを憂慮し、白川義則陸軍大将を上海派遣軍司令官とする2月25日の親補式で、天皇は白川に直接、事件の不拡大を命じた。
上海から十九路軍を撃退したら、決して深追いしてはならない。3月3日の国際連盟総会までに何とか停戦してほしいと念を押した。
白川は天皇の信頼に応え、3月3日、参謀本部の反対を押し切って停戦を断行した。これで国連総会の険悪な空気は一挙に好転した。

次は昭和11年の二・二六事件における、叛軍に対する討伐命令だ。
これは一般に重臣・腹心を殺された天皇の怒りと解釈されている。
もちろんそれもあったろうが、日本経済に与える影響を心配されたという興味深い側面がある。

町田忠治・大蔵大臣が金融面の悪影響を非常に心配して、断然たる処置を取らないとパニック(恐慌のことか)が起こると忠告してくれたので、強硬に討伐命令を出すことができたという(『昭和天皇独白録』)。

4番目は昭和20年、小磯国昭首相が中国人スパイの繆斌(みょう・ひん)を通じて日支和平を図ろうとした問題である。

天皇は、一国の首相が謀略を行うことは、たとえ成功しても国際信義を失うし、不成功の場合は物笑いになると考え、小磯を呼んでこういう不審な男と交渉することは困ると釘を刺した。
小磯は繆斌との交渉を打ち切った。

そして最後は終戦の御聖断である。

以上、昭和天皇が政府や軍に口出しをしたのはおよそ5度しかない。
しかも、平和のための意見はしても、戦争の指導は一切していないのである。