「筑紫」の語源となった神社2022/05/11

近所にある筑紫神社(筑紫野市)。

地名から取って付けた神社だと当然思っていた。

ところが、むしろ逆に、ここに祀った「筑紫の神」から筑紫の地名が生まれたのだ!

筑後国風土記によると、山に荒ぶる神がいて峠を行きかう人を取り殺していた。
そのため、人の命尽くす(イノチツクス)の神と呼ばれた。

「ツクス」転じて「筑紫」となったわけだ。

筑紫は今も「ツクシ」と言ったり「チクシ」と言ったりする。

水城の造り方2022/05/16

660年、朝鮮半島の百済が日本に救援を求めてきて、時の女帝、斉明天皇が応じた話は3月10日付に書いた。

日本は661ー663年の3年間、唐・新羅を相手に百済救援戦争を戦うわけだが、せっかく日本の全面バックアップで王子の余豊璋を王位に就けて百済を復興させたのに内部分裂。余豊璋は忠臣の鬼室福信を殺してしまう。

この混乱に乗じた唐・新羅に再び滅亡されてしまうのだ(白村江の戦い)。

馬鹿を見たのが日本。
今度は唐・新羅が日本に攻めてくるかもしれないということで、それまで海岸近くにあった出先機関の那津官家(なのつのみやけ)を現在の太宰府まで引っ込め(のちの大宰府政庁)、それを守る巨大な土塁、水城を664年に築く。

昨日は毎月第三日曜日に「水城館」で行われている水城堤散策に参加した。
西鉄の下大利から水城館まで歩いて30分かかり、開始の10時にぎりぎり間に合った。
申し込み不要のイベントだが、20~30人も参加者がいてびっくり。
グループに分かれて東堤を2時間余りじっくり見た。
土塁は御笠(みかさ)川を挟んで二つに分かれているのだ。

物足りなかったので、終わったあと一人で西堤を見に行った。
土塁断面を楽しみに行ったのだが、これがなんと本当の断面ではなく焼き物による再現だったのでがっかり。
まあ、雨風にさらされるので仕方ないか…。

築造方法の案内板は分かりやすかった(写真)。
あと、土塁の裏側(太宰府市側)が東堤より美しくて良かった。

まだ、西堤には水城ゆめ広場~西門跡があるので今度行ってみよう。

裂田溝(さくたのうなで)2022/05/18

4世紀、神功皇后が神田の灌漑用に掘った裂田溝(さくたのうなで)が今も福岡県那珂川市に残っているというので行ってみた。

カーナビにないので行くのに苦労した。
かなり山あいで、なぜここに神田を?という場所だが、用水路も流れる水も驚くほど美しかった。
地元の人たちの保全の努力に頭が下がる。

写真に映っている石は、工事中、神功皇后が「無事に水を通させ給え」と立って神に祈った石だという。

三種の神器の始まり2022/05/19

三種の神器とは。

そう、鏡、剣、勾玉ですね。
天皇家のしるし。
どなたでもご存じでしょう。

では、その三つの組み合わせが初めて見つかったのはどこでしょう。

それが吉武高木遺跡(国史跡)の3号木棺墓なんです。

現在の福岡市西区で、一帯は「やよいの風公園」として綺麗に整備されています。
飯盛山というてっぺんが特徴的な山が近くにあって絶景です。

時代は弥生時代中期のはじめ、紀元前2世紀のはじめです。
今から2200年前。
ここ以前にこの三つの組み合わせはなく、「最古の王墓」だといわれています。

青銅器の工房集落2022/05/19

さて、前回の「三種の神器」のうち、剣や鏡という青銅器。

4/17「古代史における自虐史観」に書いたように、学者はすぐ中国や朝鮮からもらったものだろうと言いたがる。

そんなことはない。
吉武高木遺跡の時代(弥生中期はじめ)には、北部九州で青銅器の鋳造が始まっている。

はじめは伝わってきた物かもしれない。
しかし相手は手取り足取り技術を教えてくれるような親切な民族ではないし、そもそも簡単に外海を往来できる時代ではない。
日本人は昔も今も自ら研究してどんどん発展させ、元より優れたものを作り上げていく民族だ。

写真は佐賀県鳥栖市にある安永田遺跡の案内板だ。
時代は150年ほど下がって弥生中期末(約2050年前)だが、分かりやすいので見てもらいたい。

ここでは昭和54年(1979)、九州初の銅鐸の鋳型が発見された。
さらに同55~56年発掘調査したところ、銅鐸や銅矛の鋳型片、青銅器の原料を溶かして炉をしつらえた長方形の穴(鋳造遺構)、溶解炉に酸素を送る送風管(フイゴ)などが見つかり、青銅器の工房集落の跡だというのが分かったのだ。

すごいよね、2000年以上も前に、青銅を溶かして鋳型に流し込んで器具を作っていたなんて。今でも危険な作業だ。

それまで九州は「銅矛・銅剣文化圏」、近畿は「銅鐸文化圏」とされてきた見解に抜本的な再検討を迫っている。

大宰府から基肄城を望む2022/05/22

このブログでもおなじみ(?)の基肄(きい)城。

天智天皇が665年に大野城と併せて大宰府防衛のために築いた山城だ。

わが家(小郡市)からもよく見えるのだが、大宰府政庁跡からもよく見えるというので今日、確認した。

大宰府政庁の真南、朱雀大路の先にある。

わが家からだと真東から見ているので、真北から見ると山の形が違うのでなんか変な感じだ。

一番高い所が北帝門(414m)らしい。

基肄城北帝に行ってきた!2022/05/23

きのう大宰府政庁跡から見た基肄城北帝門。

今度は基肄城北帝門から大宰府政庁を眺めたい、と早速、きょう行ってきた。

基肄城跡には10回は登っているのだが、北帝門は見たことがない。

山頂近くの駐車場から目の前の土塁を登るだけなのだが、傾斜が40度くらい?後ろに転がりそうで実に怖い。

昔の人がいかに強いとはいえ、鎧兜を着けていたらそう簡単には動けまい。すぐに弓矢の餌食になりそうだ。

いつもはてっぺんの平らなところで景色や石碑を見て終わりなのだが、北に向けて尾根の山道を歩く。

こんなところでイノシシに遭遇したらイチコロだ。

そう思いながら北峰(北帝)にたどり着く(写真)。
北帝門はどこだ?
さらに歩く。

イノシシ嫌だなあ。

やっと見つかったのは北帝城址の碑。
ちょっと違うが北帝門は諦めて戻る。
何しろ周りは鬱蒼とした林で、大宰府政庁など見えないことが分かったから。

途中、大礎石群という案内板があり、行ってみる。
これがすごかった。
相当巨大な建物(武器や食糧の貯蔵施設)が建っていたのだろう。