『南京占領下の作家たち』2023/08/21

林芙美子だけでは売れないと二の足を踏む出版社が多いだろう。

日本軍占領下の南京を訪れた作家を調べると、ほかに大宅壮一、杉山平助、山本実彦、石川達三、木村毅(き)の5人が見つかった(昨年12/19付参照)。
彼らの作品を集成した本を出したい。
以下のラインアップになる。

大宅壮一「香港から南京入城」
杉山平助「支那と支那人と日本」
山本実彦「興亡の支那を凝視めて」
石川達三「生きている兵隊」
木村毅「名曲」
林芙美子「黄鶴」「河は静かに流れゆく」

これなら〝南京戦作品集〟の決定版だと自負する。
出版社に伏してお願いします。

林芙美子の南京従軍記(昭和12―13年) 出版社求む!2023/08/15

林芙美子は昭和12年12月末、占領後の南京に初めて入った日本人女性である。
だから、その記録は極めて重要だ。

私はすでに『林芙美子が見た大東亜戦争』『花に風 林芙美子の生涯』の2冊を世に問い、その中で一連の南京従軍記を紹介してきたが、やはり読者には林芙美子の原文全体を読んでもらいたいという思いが強い。

中華民国の首都・南京は昭和12年12月13日、日本軍によって陥落する。
作家の林芙美子は東京日日・大阪毎日新聞(のちの毎日新聞)の特派員として、すぐに旅立つ。
12月27日、長崎を出港し、29日上海着。翌30日陸路で南京に向かい、大みそかに到着。明けて13年1月3日まで滞在した。南京市内に3泊、前後に露営を1泊ずつ、計5泊6日の従軍である。

目次
【従軍記】
会遊の南京
従軍の思い出
南京
露営の夜
南京行(女性の南京一番乗り)
静安寺路追憶
私の従軍日記
五月の手紙
『私の昆虫記』あとがき
北岸部隊(抄)=南京関係部分のみ
【小説】
黄鶴
河は静かに流れゆく

凡例
一、林芙美子著『私の昆虫記』(昭和13年7月、改造社)の中から、南京従軍に関する文章7編と「あとがき」を選び、『心境と風格』(昭和14年11月、創元社)所収の「南京」を加えた。また、『北岸部隊』(昭和14年1月、中央公論社)の中から南京滞在時の文章を抜粋した。
一、なるべく時系列になるよう並べ替えたが、各編は独立して書かれており、必ずしもそうはできなかった。その際は流れの分かりやすさを重視した。
一、「黄鶴」は小説だが、主人公の重子は明らかに芙美子そのものである。昭和13年3月という早い時期に書かれていることも重要だ。また、「河は静かに流れゆく」(『悪闘』昭15・4)は、芙美子が朝日新聞南京支局長宅のアマ(中国人の女中)に取材したもので、南京で暮らす中国人の視点で書いており、南京戦を別な角度で見ることができる。

これだけの貴重な記録――南京大虐殺があったとされる時期の重要な記録が埋もれているのは不可思議だ。
どうか出版するところが出てきてほしい。原稿はすぐにでも用意できる。
ちなみに今年は林芙美子生誕120年の節目でもある。

世に絶対的な自由などない2023/06/24

20日付の産経新聞に、日本維新の会と国民民主党と「有志の会」が19日、改憲に向けた条文案をまとめたとある。

その中で、「行き過ぎた人権制限を防ぐため、幸福追求権を定めた憲法13条に、憲法が保障する自由・権利を『絶対に侵してはならない』との条文を加える案なども示した」という!!

今の日本のどこに「行き過ぎた人権制限」があるというのか。

むしろ人権団体のやりたい放題ではないか?

先般、稀代の悪法、LGBT法案が成立し、社会の破壊や混乱が懸念されているときに、憲法の唯一の歯止めである「公共の福祉に反しない限り」を抹消し、活動家の自由を「絶対に侵してはならない」と保障するとは、何たる不見識か!!

少々長くなるが、日本人が無邪気に信じている、フランス革命に端を発する「自由」がいかに恐ろしいものかを書きたい。

東京帝国大学助教授、36歳の平泉澄は昭和5年(1930)3月24日、横浜港から香取丸に乗って旅立った。

インド洋、紅海を経て、マルセイユに上陸したのが5月4日。
5カ月にわたってドイツの5つの大学を回ったあと、10月にフランスに入った。フランス革命の本質を究明するためである。

「幕末より既に我国に影響を与へ、明治に入つては西園寺公望、中江兆民等、フランス革命危激の思想を伝へて之を鼓吹するや、その暗雲低迷して時に迅雷人を驚かし、そして大正六年ロシア革命以後に於いては、その勢力倍化し数十倍化して、青年学徒の間に蔓延して行つたのでありますから、明治・大正・昭和に関する限り、フランス革命及びロシア革命を除外して、国史を考へる事は出来ないのであります」(『悲劇縦走』)

しかも「大抵は革命の徒のいふがままに、革命は王侯貴族の奢侈横暴、苛酷なる政治に堪へ切れずして起されたもの、その目標とし理想とする所は、自由、平等、博愛の三つであり、それは一七八九年以来掲げられて、運動の前途を照らす目標となつて来たのである、と説かれてゐるのであります」

平泉はこの説に深い疑いを抱いた。
革命当時の遺品、文書、記録だけに徹して史料を探し回った。7つの図書館、博物館のほか、古本屋や骨董屋でも史料を買い求めた。

そうして次の断案(結論)を下した。

①1789年に革命の標語になったのは、リベルテ(自由)だけだった。
②1792年にエガリテ(平等)が加わった。
③フラテルニテ(博愛)は散見するものの、自由・平等・博愛と、三つが肩を並べるのは1848年である。

平泉は自分の断案を3人の教授にぶつけた。はじめの2人は、3つとも革命当初からのものだと言って否定した。
3人目の教授は平泉の説をあっさりと認めた上で、1848年の二月革命時にラマルティーヌ(詩人で政治家)が博愛を加えたのだと断言した。平泉は自分の結論に自信を得た。

これが何を意味するか。

もしフランス革命が当初から自由・平等・博愛を理想として掲げていれば、あの忌まわしい弑逆、戦慄すべき殺戮は行われずに済んだと平泉は言う。
しかし、彼らは国王ルイ十六世、王妃マリー・アントワネットを殺し、恐怖時代といわれる1793年から翌年にかけて一万を超える人々を殺したのである。
フランス革命の歴史には修飾や欺瞞があり、それがそのままわが国に輸入されて革命の宣伝や鼓吹に用いられていることがはっきりした。

平泉はさらに作家のポール・ブールジェに接触を図る。
高齢と避暑を理由に断られるものの、代わりに読むべき良書――バルザック、ルブレー、テーヌ――を指示された。

この結果、平泉は「無限の教訓」を得た。

フランスにあってさえ、心ある人々によって、革命が決して王侯貴族の不当な抑圧によってやむを得ず起こされたものでなく、抽象的な空理空論によってみだりに自由・平等を希求し、競争・憎悪の感情を激発して他を破壊し自らをも破壊したこと、これを救うものは伝統にほかならないという思想運動が展開されていることをを知ったのである。

平泉は日本に帰ったら、明治初年以来、西園寺公望や中江兆民らによって伝えられた革命論を打破しようと決意する。

昭和6年(1931)4月、パリからロンドンに移動してからもフランス革命の研究を続けた。

そして出会ったのが、エドモンド・バーク著『フランス革命の考察』(1790年発行)である。

バークはアイルランド生まれの政治家。フランス革命から1年数カ月後にはこの本を刊行した。
平泉言うところの「フランス革命を、フランスの為に悲しむのみならず、全人類の為に悲しむべき不祥事として、之を批判し、之を憎悪したもの」。当時次々と版を重ねていることを、大英博物館の蔵書で平泉は確認している。

一方、バークの本に反対して書かれた、トーマス・ペーン著『人権』(1791年)もまた負けじと売れて、英国の思想界はバークとペーンとで二分されたらしい。しかし結局、バークの主張がまさった。

「バークの功績は、ひとりフランス革命の影響を喰止め、英国を顛落より救つたばかりでなく、保守主義の根本義を明かにして、ほしいままなる思弁に出で、抽象的なる批判を逞くする時は、すべての宗教、道徳、制度は破壊せられて無政府主義に陥る外は無いと説いて、それが保守党を力づけた所に在ります」

こうして同書は保守主義の古典として、230年読み継がれる超ロングセラーとなっている。
今すぐに手に入る日本語訳でも三種類ある。
筆者の手元にあるのは『【新訳】フランス革命の省察 「保守主義の父」かく語りき』(2011年、PHP新書)だ。編訳者の佐藤健志が、フランス革命の急進主義についてプロローグに書いている。

「社会を急速かつ徹底的につくりかえようとする試みは、以後の『革命』の基本形となる。全体主義や社会主義はむろんのこと、明治維新をきっかけとしたわが国の近代化・欧米化や、敗戦後にわき起こった民主主義礼賛なども、急進主義の影響を抜きには考えられない」

最後の指摘は重要だ。「自由・平等・博愛」と同じく、今日、民主主義を疑う人はほとんどいない。与野党を問わず、政党名が自由民主党、立憲民主党、国民民主党と、ことごとく民主主義を標榜しているのがいい例だ。

ところが敗戦後、民主主義とはほとんど共産主義と同義だった。

昭和20年10月、朝日新聞の鈴木文四郎(主筆兼編集責任担当重役)は、社内の共産主義者による首脳陣の戦争責任の追及、退陣要求に屈し、退社を余儀なくされた。
のちに「民主主義と共産主義」という文章で訴えている(没後に編まれた『文史朗文集』所収=文史朗はペンネーム)。

「共産党がこの国で終戦後成功した大きな手品は、『共産主義』を『民主主義』にすり換えて、それを巧みに使つたことである。民主主義青年同盟、日本民主主義文化連盟、民主保育連盟、民主栄養協会という工合に、『共産主義ーー』と正面からいうべきところを『民主主義』に置き換えている。選挙の時、殊に地方における演説では『民主主義』を盛んに唱えた。生れて始めて民主主義というお題目を聞かされた一般大衆の中には、マックァーサー元帥のいう民主主義も、徳田[球一]共産党書記長のいう民主主義も大した変りはないだろうと思つたものが随分多かつたようだ。そこで、『共産党に一度やらせて見たらいいじやないか。税はウンと下げるし、物価は三分の一くらいに安くするというじやないか」といつて、共産党に投票した連中も少くなかつた」

自由民主党が時に保守派が首をひねる行動を取るのは、民主主義を標榜する限り、当然の帰結なのだ。日本に真の保守政党はないと言っていい。

2020年、米大統領選をめぐって、現職のトランプ支持者を襲い、各地で暴動を起こしたアンチファ(アンチファシスト)。反ファシズムを標榜しながら、アメリカを否定し、無政府主義に近いが、これもまた源流はフランス革命の急進主義にある。

平泉澄は昭和6年5月27日、ロンドンを発し、アメリカ経由で帰国の途に就く。
留学は2年間の予定で、まだ半年以上も余裕があった。しかし、世界情勢のただならぬ雲行きに対して、わが国が甚だしく無防備であるのに居ても立っても居られなくなったのである。

国会図書館恐るべし2023/06/07

国立国会図書館オンラインの所蔵資料検索で、試しに「宮田俊行」と入れてみると、私がこれまで書いた単行本や文章8件が過不足なく出てきた。

原田大六が面白い2023/06/07

在野の考古学者、原田大六(1917-1985)が面白い。

福岡県糸島市を拠点に活躍。平原遺跡の発掘調査で有名なことは伊都国歴史博物館を訪ねて知ってはいたが、その時点ではあまり興味を持たなかった。

装飾古墳に関する良い文献を探すうちに、国会図書館デジタルコレクションで原田大六『磐井の叛乱』(1963)を知り、読んで驚いた。

五郎山古墳の壁画に描かれている家屋が筑紫神社だというのだ。

これをきっかけに、五郎山古墳の被葬者が分かった(4/30参照)。
この詳細はしかるべき形で発表したいと考えている。

古書で『新稿 磐井の叛乱』(1973)を購入して読んだが、やはりすごかった。私の興味あるところが全て網羅されている。

以来、嵌まってしまってデジコレでちょこちょこ読んでいるが、目から鱗のことが多い。例を挙げよう。

日本書紀や七支刀銘文、広開土王碑文によって明らかなように、日本は4世紀半ばから朝鮮半島南部(いわゆる任那=加耶)を勢力下に置き、百済や新羅を服属させている。

とにかく日本は戦の強い国だった。
百済や新羅が困ったときには軍隊を派遣してやって、そのお礼にいろんな文物を献上されるという関係だったのである。
日本の輸出品は軍事力、輸入品は技術工芸だったともいえる。

しかし、6世紀になると、朝鮮半島が乱れてくる。
562年には新羅が任那日本府を滅ぼす。

原田大六は「任那に山城を築いて防戦したということも無かったらしい。日本軍は攻撃法は知っていたが退却して防戦する方法を知らなかったのであろう」と指摘する(『考古学研究』(1959.12)掲載の「神籠石の諸問題」)。

日本本土にも防衛施設はなかった。
「古墳文化前期から中期まで、いや後期にさえも、神籠石が姿を見せる以前には、日本には大軍を迎え撃つに足る城塞らしきものは全く見受けない」

こうして6世紀末から九州各地に神籠石が築かれるが、今度は完全防備に徹してしまって攻撃には適さないものを造ってしまった。原田大六は「愚城」とこき下ろしている。

これで分かった。
日本は663年に白村江の戦いで負けてから慌てて、水城、大野城、基い城を築くのだが、そのとき国を失って日本に来ている百済人を遣わして築かせたと書記に書いてある。
日本には巨大古墳を造る土木技術が既にあったのに、百済人に教わる必要があったのかと疑っていたが、日本人は実戦向きの城を築いたことがなかったのだ。

このほか、原田大六『卑弥呼の墓』(1977)には、強烈な松本清張批判が書かれている。
私も松本清張の古代史本はよく読んでいるので、時間の無駄だったかと腹立たしい思いがする。古代史好きには注意を促したい。

野崎六助「こんな面白い作品は初めて」2023/03/15

私が書いた小説「取材ノートのマンモス」について、野崎六助氏は「(月刊公募ガイドの)講座に寄せられてくる数多の原稿のうちで、こんなに面白い作品に当たるのはおよそ初めてのことでした」と高い評価を与えてくれた。

野崎 六助(のざき ろくすけ、1947年11月9日 - )は、日本の小説家、文芸評論家。 東京都品川区生まれ。京都府立桃山高等学校卒業。コック、大工など多数の職を経る。1992年、『北米探偵小説論』で第45回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)受賞。推理小説、推理小説評論を主に書く。日本推理作家協会会員。=『ウィキペディア(Wikipedia)』=

私はこの作品「取材ノートのマンモス」を公募には出さず、親しい友人である鹿児島市の出版社ジャプランの求めに応じて、「現代鹿児島小説大系」中の一篇として提出した。
このため、残念ながら広く手に取りやすい作品とはなっていない。

コメント欄から連絡をいただければ、同書(函入り、408ページ)定価5000円(税別)のところを1500円(税込み、送料込み)でお分けいたします。
コメントはチェックしてから公開する設定にしていますので、他の人に見られる心配はありません。

南日本文学大賞受賞者の男性からも「『現代鹿児島小説大系』全4巻の作品の中で、一番面白かった」と言われました。ぜひご一読ください。

◎「取材ノートのマンモス」あらすじ
 江頭順平は南国日日新聞社で長く記者をやってきた。
 ある日、会社が突然、グループ企業を一つにまとめるという名目で新築移転計画を発表した。江頭はその準備室に異動になる。
 内情を知ると移転には金がかかり過ぎており、誰かが不正をしている疑いがある。だが、江頭は立場上、社長の命じるまま新社屋建設を先頭に立って推進しなければならなかった。
 新社屋は完成し、江頭は今度は社史編纂室に配属になる。
 そんなとき、新社屋建設準備室で部下だった平岡が、動物園の象の池で溺れるという怪死事件が起こる。これは事故死か殺人か――。 伝説の英雄ゴウキチが起こした戦の生き残りが創立したという、誇り高い歴史を持つ新聞社は、今や犯罪と疑惑にまみれている――。江頭は葛藤しながら、事件の謎解きに挑む。

※前回書いたように、ゴウキチは大江健三郎『同時代ゲーム』の「壊す人」に触発された存在です。

「壊す人」とは結局、何者だったのか2023/03/13

大江健三郎が亡くなった。

大学時代、つまり40年余りも前に読んだ『同時代ゲーム』の影響はずいぶん続いた。

私が9年前に発表した最後の小説、「取材ノートのマンモス」(『現代鹿児島小説大系2』所収)に「ゴウキッどん」という英雄が出てくる。

この名は西郷隆盛の本名、西郷吉之助の郷吉(ゴウキチ)から取ったものだが、実は『同時代ゲーム』の壊す人なのだ。

だから、こう書いている。

「ゴウキッどんについて語るとき人々は、強烈な破壊者のイメージから『ちんがらっ、打っ壊(が)した人じゃった』という前置きを必ず付ける」

大江健三郎の文章は有名な悪文で、難解だ。
だから壊す人なんてもっともらしくもったいぶっているが、何のことかよく分からない。

現実の大江健三郎の思想は、反核とか反戦平和とか、反原発とか分かりやすい左翼だ。

しかし文章は難解で理解不能だからこその不思議な魅力がある。
亡くなったのはやはり寂しい。