天皇親政について考える②2017/12/18


高須クリニック院長の高須克弥氏がオークションで原本を落札して話題になった『昭和天皇独白録』を改めて読んだ。

単行本が出たのが1991年。
ぱらぱらとは読んでいたが、今回、腰を据えて全文を読んだ。
といっても、「寺崎英成御用掛日記」も収録されていて、実は「独白録」部分は全体の三分の一ほどしかなく、そんなに時間はかからない。

しかも、抜群に面白い。
なにしろ、昭和21年の3月から4月にかけて、寺崎英成ら5人の側近が昭和天皇から聞き取ったものだ。

まだもちろん東京裁判も開かれておらず、何にも色がついていない超一級の史料だ。

前回につながるが、戦前の天皇は絶対権力者だったというイメージがある。

しかし、昭和天皇は事前の注意や戒告はするものの、一度政府で決めた事は拒否しないと決めていた。

むしろ天皇が遠慮せずに軍部の独走を抑えていればよかったのに、と思うくらいだ。

半藤一利の<注>によると、昭和13年7月11日、日ソ両軍衝突の際には天皇は腹を立て、
元来陸軍のやり方はけしからん。満洲事変の柳条溝の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う。このたびはそんなようなことがあってはならんが……。今後は朕の命令なくして一兵でも動かすことはならん
と言ったというが、どうだろう、その後もそういう形にはなっていない。

私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ」という基本姿勢を貫いている。

(弟の)秩父宮の、憲法を停止し〝親政〟を実施してはどうか、との建議に、天皇は伝統を傷つけるものとして強く反対した、という。

なんと、海音寺潮五郎が指摘したのと全く同じ歴史観である。

昭和天皇は立憲君主と専制君主を明確に分け、自らは前者であると厳密に位置づけていた。
意外や、現日本国憲法下の象徴天皇とそれほど遠くないのだ。
繰り返すが、この〝独白〟は現憲法など影も形もない時期の話である。

昭和天皇は、敗戦の原因を四つ挙げている。
第一、兵法の研究が不十分だった。
第二、あまりに精神に重きを置きすぎて科学の力を軽視した。
第三、陸海軍の不一致。
第四、常識ある首脳が存在しなかった。

沖縄決戦の敗因については、
陸海作戦の不一致にあるとした。
特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある。敢て之をせざるを得ざる処に無理があった。
海軍は「レイテ」で艦隊の殆ど全部を失つたので、とつておきの大和をこの際出動させた、之も飛行機の連絡なしで出したものだから、失敗した。
陸軍が決戦を延ばしてゐるのに、海軍では捨鉢の決戦に出動し、作戦不一致、全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった


天皇はよく情勢を分析して、賢明な判断をしているが、それが活かされることはあまりなかった。

よく知られているように、二度だけである。
二二六事件「の時と終戦の時との二回丈けは積極的に自分の考を実行させた」。

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