江田船山古墳の大刀銘文2022/11/30

古代史の大きな不思議は、日本人がなかなか漢字を使おうとしなかったことだ。

紀元前3世紀頃には中国から青銅鏡がもたらされ、日本人はそこに記された漢字の存在を知った。
すぐに日本人も青銅鏡を作り始め、そこには漢字も記されているが、それは一種のデザインとしての受容であり、漢字を使うようになったとは言えない。

その証拠に、日本独自の銅鐸や銅剣、銅矛には一切、文字(漢字)がない。

それから数百年、紀元後3世紀の魏志倭人伝の時代になると、卑弥呼が魏の皇帝から「親魏倭王」に任ずる詔書をもらっているから、当然、漢字を読める人間はいただろう。
返書もしたはずだが、それらは一切、残っていない。

ようやく、日本人が漢字を使ったものが出てくるのは5世紀後半である。

江田船山古墳(熊本県和水町)出土の大刀に漢字75文字が象嵌されていた。
「日本最古の本格的記録文書のひとつ」ということになる。

治天下獲□□□鹵大王世奉□典曹人名无□弖
八月中用大錡釜并四尺廷刀八十練六十□
三寸上好□服此刀者長寿子孫注々
得三恩也不失其所統作刀者名伊太□書者張安也

天の下を治(しろしめ)す獲加多支鹵(わかたける)大王の世事(つか)え奉る典曹人名は无利弖(むりて)。
八月中、大錡釜并びに四尺廷刀を用い、八十練せる六十捃三寸の上好の刀なり。此の刀を服せる者は長寿にして子孫注々三恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者名は伊太和(いたわ)、書ける者は張安也。

ここから古墳の被葬者はムリテであり、刀を作ったのはイタワ、銘文を書いたのが張安だと分かる。

これが普通だろう。
墓を作ったら被葬者の名を記す。
後世に残るような立派な物を作れば作者の名を残す。

ところが、この後の6世紀の装飾古墳にも被葬者の名前はない。
とっくに漢字を使いこなす人々がいたにもかかわらず。

意地でも漢字を使いたくない理由があったのだ。
そこに装飾文様の秘密が隠されているに違いない。

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