「治天下大王」は中国からの脱却 ― 2022/12/14
熊本・江田船山古墳の銀象嵌鉄刀(11/30、12/10参照)と埼玉・稲荷山古墳の金象嵌鉄剣の「治天下」銘について、広瀬和雄『前方後円墳の世界』に目から鱗の解釈がなされているので紹介したい。
「ワカタケル大王のときには東国に杖刀人(じょうとうじん、武官)、西国に典曹人など、中央に上番(勤務)した地方首長がいたことが確実となりました。それらに刻まれた『治天下大王』は、五世紀をつうじて朝貢した中国王朝からの脱却をはかろうとした、倭王の新しい天下観をあらわすものでした」
のちに聖徳太子が隋の皇帝に、日出ずるところの天子、日没するところの天子に申すと親書で宣言したのと同様の精神だ。
紀元前から中国鏡を通じて漢字の存在を知りながら、意地でも漢字を使おうとしなかった日本人が、5世紀後半になってやっと初めて本格的に漢字の文章を綴ったら、「治天下大王」の宣言だったわけだ。実に愉快ではないか。
「ワカタケル大王のときには東国に杖刀人(じょうとうじん、武官)、西国に典曹人など、中央に上番(勤務)した地方首長がいたことが確実となりました。それらに刻まれた『治天下大王』は、五世紀をつうじて朝貢した中国王朝からの脱却をはかろうとした、倭王の新しい天下観をあらわすものでした」
のちに聖徳太子が隋の皇帝に、日出ずるところの天子、日没するところの天子に申すと親書で宣言したのと同様の精神だ。
紀元前から中国鏡を通じて漢字の存在を知りながら、意地でも漢字を使おうとしなかった日本人が、5世紀後半になってやっと初めて本格的に漢字の文章を綴ったら、「治天下大王」の宣言だったわけだ。実に愉快ではないか。
前方後円墳の出現はなぜ同時多発か ― 2022/12/14
広瀬和雄『前方後円墳の世界』(岩波新書)を読了した。
私は先に「津古2号墳問題」(12/4、12/5)を書いて問題提起したが、まさに同書は「なぜ出現が『同時多発』だったのか」を論点に挙げている。
「『畿内で発生した前方後円墳は同心円状に各地に拡大していく』、『前方後円墳は西日本で成立してから東国などに伝播していく』などの通説が、これまで流布されてきました。しかし、大和・柳本古墳群の箸墓古墳や中山大塚古墳などの前方後円墳、下池山古墳などの前方後方墳と同時期に、各地で前方後円墳や前方後方墳が数多くつくられている事実とは、明らかに矛盾します。それらはいわば同時多発的に出現していたのです」
まさに私が知りたいことだった。
しかし読了した今、明快な答えが得られたかというと、どうも…。
今度は同じ作者の『前方後円墳国家』(中公文庫)を読んでみよう。
これまで森浩一さんの本ばかり読んできたので、新鮮で面白い。
私は先に「津古2号墳問題」(12/4、12/5)を書いて問題提起したが、まさに同書は「なぜ出現が『同時多発』だったのか」を論点に挙げている。
「『畿内で発生した前方後円墳は同心円状に各地に拡大していく』、『前方後円墳は西日本で成立してから東国などに伝播していく』などの通説が、これまで流布されてきました。しかし、大和・柳本古墳群の箸墓古墳や中山大塚古墳などの前方後円墳、下池山古墳などの前方後方墳と同時期に、各地で前方後円墳や前方後方墳が数多くつくられている事実とは、明らかに矛盾します。それらはいわば同時多発的に出現していたのです」
まさに私が知りたいことだった。
しかし読了した今、明快な答えが得られたかというと、どうも…。
今度は同じ作者の『前方後円墳国家』(中公文庫)を読んでみよう。
これまで森浩一さんの本ばかり読んできたので、新鮮で面白い。
前方後円墳の出現はなぜ同時多発か② ― 2022/12/14
広瀬和雄『前方後円墳国家』が期待外れだったので、再び同じ作者の『前方後円墳の世界』の記述に戻る。
「弥生墳墓の諸要素を統合した墳墓が前方後方墳です。だからこそ、成立の当初から前方後方墳は各地をつらぬく共通性の側面をもっていたのです」
「前方後円形の墳形は吉備・讃岐・播磨・大和などの諸地域、墳丘を飾る葺石は出雲地域、円筒埴輪につながる特殊器台・壺形土器は吉備などの地域、刳り抜き式木棺と竪穴石槨のセットは吉備や畿内などの地域、中国鏡、装身具、鉄製武器などの副葬行為は西日本各地といった具合に」
これらが一斉に花開いたということか。
前方後円形の弥生墳墓って、見てみたいものだ。
ある意味、突然始まった古墳時代。
とはいえ、当時の弥生人たちが「おーい、弥生時代は終わったぞー。次は古墳時代だから、俺たちはもう用無しだ。引き揚げようぜー」なんてはずもないのだが、それを大真面目に書いている地元F大学の教授がいて仰天した。
今年6月の資料だ。
「筑後川北東岸の朝倉地域でも(略)古墳時代の到来とともに台地を降りて平地集落が展開し」
「うきは市周辺でも、弥生時代の終わりに耳納山麓丘陵の防御的なムラに住んでいた人々が、古墳時代の到来とともに丘陵上のムラを捨てて低地に移住し」
こんなのを読まされる方もたまらんなー
「弥生墳墓の諸要素を統合した墳墓が前方後方墳です。だからこそ、成立の当初から前方後方墳は各地をつらぬく共通性の側面をもっていたのです」
「前方後円形の墳形は吉備・讃岐・播磨・大和などの諸地域、墳丘を飾る葺石は出雲地域、円筒埴輪につながる特殊器台・壺形土器は吉備などの地域、刳り抜き式木棺と竪穴石槨のセットは吉備や畿内などの地域、中国鏡、装身具、鉄製武器などの副葬行為は西日本各地といった具合に」
これらが一斉に花開いたということか。
前方後円形の弥生墳墓って、見てみたいものだ。
ある意味、突然始まった古墳時代。
とはいえ、当時の弥生人たちが「おーい、弥生時代は終わったぞー。次は古墳時代だから、俺たちはもう用無しだ。引き揚げようぜー」なんてはずもないのだが、それを大真面目に書いている地元F大学の教授がいて仰天した。
今年6月の資料だ。
「筑後川北東岸の朝倉地域でも(略)古墳時代の到来とともに台地を降りて平地集落が展開し」
「うきは市周辺でも、弥生時代の終わりに耳納山麓丘陵の防御的なムラに住んでいた人々が、古墳時代の到来とともに丘陵上のムラを捨てて低地に移住し」
こんなのを読まされる方もたまらんなー
最近のコメント