前方後円墳の出現はなぜ同時多発か③2022/12/15

広瀬和雄氏は『前方後円墳国家』においても、重ねて次のような指摘をしている。

「こうした事実(注=初期前方後円墳の分布)から導き出される特徴の第一は、最初に箸墓古墳が造営され、そこを起点にして各地に前方後円(方)墳築造が徐々に拡大していったのではないし、それが『伝播』していったのでもないということである。池のなかに石を投げ込んだとき、同心円状に波紋が外へ外へと広がっていくような、そういった様相は事実にそぐわない。そうではなくて、列島各地でほぼいっせいに、同時多発的に前方後円(方)墳がつくられはじめたのである。つまり、日本列島各地で前方後円(方)墳のネットワークが一気に形成された、ということが重要である」(p.187)

では、なぜ?

「再分配システムと利益共同体の形成」が氏の答えだ。

「二世紀後半ごろから三世紀前半ごろにかけて、列島各地に併存していた諸支配共同体(地域政権)のなかで有力になってきた大和政権が、三世紀中ごろにかけてそれらの上位に聳立(しょうりつ)するようになった。そして、各地域政権の領域をはるかに超えた広域におよぶ交通諸関係を構築することに成功した。というよりは各地域政権の利害を調整し、糾合することに成功したというべきであろうか。いいかえれば各地域政権の間に、大和政権を中心にした〈もの・人・情報の再分配システム〉が完成し、利益団体としてのいっそう大きな支配共同体が誕生したのである。そしてそのシンボルとして、前代からの伝統を強くひいた墳墓祭祀が統合され、それに中国思想を加えて前方後円墳祭祀が創出されたのであった」(p.202)

ただ、ここで気になるのは、広瀬氏が「魏志倭人伝」を全く無視していることである。

三世紀半ばとはまさに卑弥呼の時代の真っ只中なのだ。

しかし、解釈できないことはない。

当時、北部九州には卑弥呼率いる女王国連合があった。
ところが伊都国に御道具山古墳、奴国に那珂八幡古墳という前方後円墳が築かれたことで分かるように、周りに大和政権の力が及んできた。
魏志倭人伝にある「女王国の東、海を渡ること千余里、また国があり、みな倭種である」が大和政権のことかもしれない。

危機感を持った卑弥呼は景初三年(239年)に魏に使いを送り、翌年に親魏倭王の称号を受けたと考えられる。

危機を脱したかに見えた卑弥呼だったが、今度は247年、女王国の南にある狗奴国(熊襲の国)と戦争になる。
狗奴国と大和政権との関係は分からない。

卑弥呼から戦況の報告を受けた帯方郡(魏の出先)から張政らが派遣され、難升米(大夫)に詔書・黄幢を授けた。
魏は卑弥呼を見限り、難升米を当事者としたのである(森浩一『倭人伝を読みなおす』)。

卑弥呼は失意のうちに死ぬ。おそらく自死だろう。

女王国連合は解体し、乱れた後、再び台与という女王を立てて安定を得る。

しかし四世紀になると、景行天皇やヤマトタケル、仲哀天皇、神功皇后による九州征伐・熊襲征伐が繰り返される。
この足跡が見事に前方後円墳築造と重なる。

これで広瀬説と魏志倭人伝、そして記紀が見事につながったと思うが、どうだろう?

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