うきは市の西ノ城古墳2023/02/27

昨日、西ノ城古墳の発掘調査現地説明会に行った。

令和2年度、つまり2年前に発見されたばかりの古墳である。

もともと「西ノ城」という山城跡として知られていたが、地権者が公園開発を申請したため、記録保存の発掘調査をしたところ、古墳を土台にした山城だったことが分かった。

そして古墳が東西に突出部を持つ、独特な形をしているというので一躍、注目された。
まだ断定はされていないが、「双方中円墳」ではないかと見られている。

さらに興味深いのはその古さ。
古墳時代の初頭、3世紀ではないかと見られているのだ。

3世紀といえば、魏志倭人伝に描かれた邪馬台国の時代であり、弥生時代から古墳時代に移行する、まことに興味深い時代でもある。

このブログでも、「卑弥呼が死んだ頃の古墳」と題して、昨年12月20、21日、9回にわたって、鳥栖の赤坂古墳、久留米の祇園山古墳を取り上げた。
その両古墳とはまた全く形状の違う古墳である!

写真は墳頂から東突出部を見たところである。
手前にはたくさんの葺石。
向こうに見える小さな山もまた井上城という山城である。
この一帯は山城だらけなのだ。

記紀による任那の歴史2023/02/13

浅学非才の身ながら、日本書紀と古事記によって任那の歴史をピックアップしてみます。
加耶展の「加耶の歴史」と参照すると面白いでしょう。

まず10代崇神天皇から始めます。

崇神は初代神武と同じ、ハツクニシラス(初めて国を治めた)すめらみことと言われます。
つまり神武から9代までは大和地方で力を蓄えていった基礎の段階で、崇神は即位10年で四道将軍を派遣して全国平定を推進します。
同12年には戸口の調査を命じ税を課しました。これも重要ですね。

これが3世紀前半~半ば頃。
北部九州では卑弥呼の時代です。
東からの圧迫をひしひしと感じた卑弥呼は239年、魏に使いを送り、親魏倭王の称号を受けます。
こうして卑弥呼と崇神が直接激突することはありませんでした。

卑弥呼は247年、かねて仲の悪かった南の狗奴(熊)国と開戦。その戦いの中で亡くなります。
卑弥呼が戦死だったか自死だったのかは、1/2付「卑弥呼についてのまとめ」をご覧ください。

邪馬台(大)国が滅んだ3世紀後半から4世紀になると、九州でも大和の象徴である前方後円墳がばんばん造られるようになります。

崇神65年、任那国がソナカシチを遣わして朝貢してきます。
これは狭義の任那で、このころ出来たばかりの金官加耶です。
魏志倭人伝の狗邪韓国です(クヤ→カヤ)。

崇神が68年に崩御して、垂仁天皇2年にこのソナカシチが国に帰りたいと言うので、赤絹百匹を持たせて任那の王へのみやげとした。
ところが新羅人がこれを奪った。
これが任那と新羅の争いの始まりだという。

別の説では、ソナカシチが大加羅の王の子、角鹿(つぬが)アラシト(額に角が生えていた)に変わっている。
アラシトは到着直後に崇神が崩御したため、垂仁に仕えて3年たった。
帰りたいと言うので垂仁は「お前が道に迷わなかったら先皇にも会えたことだろう。だからお前の国の名を改めて、ミマキイリ彦(崇神天皇)の御名を国の名とせよ」と命じた。
それでその国の名をミマナという、任那の由来の話になっている。

ちなみにこの大加羅はのちの大加耶ほど発展しておらず、高霊加羅と思われる。
つまりこの二つの話は、金官加耶、高霊加羅が次々と天皇に服し、狭義の任那から広義の任那に広がっていく過程を示しているといえよう。

長くなってきたので、稿を改める。

邪馬台国論争の決着2023/01/14

真野和夫『邪馬台国論争の終焉』を読んでみた。
森浩一さんが『倭人伝を読みなおす』の中で取り上げていたからだ。

タイトルで分かるように、真野さんの畢生の自信作だろう。

特に21の旁国の一つが津古にあった(写真の表)というのは私と同じで大いに意を強くした。

そうした参考になる点は多々あったものの、全体としては私の仮説を揺るがすには至らなかった。

やはり『倭人伝を読みなおす』が、新書版ながら汲めども尽きないヒントの宝庫だ。

まず重要なのは、倭人伝で邪馬台国は一回しか登場しないこと。
女王国は五回、女王は七回も使われている。

中国では則天武后(武則天)が史上唯一の女帝だ(在位690―705年)。
したがって日本の女王が非常に珍しかった。
だから女王国には和名の固有名詞があっただろうが、それでは呼ばずに「女王国」としたのである。

この女王国は三郡山地と背振山地に挟まれた「二日市地峡帯」にあったと私は考える。
現在の筑紫野市であり、写真の表にあるように弥生時代の巨大集落もある。

森さんの指摘でもう一つ重要なのは、投馬国と邪馬台国の記述への疑問である。

倭人伝では、不弥国までの具体的な記述の後に、「南に投馬国へ至る。水行二十日。五万余戸ばかり。その南、邪馬台国へ至る。女王の都で、水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり」とある。

森さんは「投馬国と邪馬台国の記述は、卑弥呼の死後、女王台与が晋へ遣使したときにもたらされた新しい情報を陳寿が倭人伝の編述にさいして挿入したと考える」。賛成だ。

これは私の仮説に見事に合致する。

二日市地峡帯にあった女王国が、南方の狗奴国との対立が深まるにつれ、戦争に備えるため女王・卑弥呼が筑後南部の邪馬国へ遷都し、邪馬大国へ国名を改めたのだ。
おそらく周辺地域を次々に編入していったのだろう。
七万余戸は大変な人口だ。
当時乳幼児の死亡率は高かっただろうが、それでも一戸当たり四人はいるだろう。
そうなると三十万人。立派な「大国」だ。

山門郡瀬高町なら、帯方郡から水行十日、陸行一月の距離もよくあてはまる。

残るは投馬国だ。
三潴(みづま)や上妻・下妻郡のあたりと考えれば、邪馬大国の北にあるという位置関係はクリアする。
しかし水行二十日が当てはまらない。

こう考えた。

卑弥呼は邪馬国へ南遷して邪馬大国を築く間、かつて女王国があった場所をほったらかしにしたわけではあるまい。
そこは北辺の守りとして変わらず重要なのだから。
それが投馬国だ。

そこなら帯方郡から船で海を渡り、博多湾から御笠川を上ればいい。
そう、水行だけで行けるのだ。
日数も二十日がよく当てはまる。
五万余戸、人口二十万人もこの場所なら納得がいく。

どうでしょうか。
これで邪馬台国問題は解決しました。

魏志東夷伝を通して読んでみた2023/01/04

いわゆる魏志倭人伝は、「魏書」の中の「烏丸鮮卑東夷伝」の最後にある「倭人条」のことである。

森浩一さんが倭人伝しか読まない人に苦言を呈しているので、東夷伝を通して読んでみた。
ちくま学芸文庫の『正史 三国志4』である。
訳書はこれしか見当たらなかった。

森さんの言う通り、面白かった!

2世紀後半、朝鮮半島では韓と濊(わい)の力が強くなって、後漢の楽浪郡では制することができなくなった。

後漢末の建安年間(196-220)、公孫康が楽浪郡の南部を分割して帯方郡をつくって、韓と濊を討った。
以後、倭と韓は帯方郡(公孫氏)の支配を受けることになった。
(倭国は討たれたわけではないので、おそらく朝鮮南岸の倭人のことだろう)

後漢から魏に代わって、2代皇帝の明帝は景初年間(237-239)に帯方・楽浪の両郡に秘かに太守を送って平定させた。

その後、韓の諸国の首長に邑君の印綬を授け、それに次ぐ者たちには邑長の位号を授けた。

景初といえば。

卑弥呼が景初3年に魏に使節を送り、翌年、親魏倭王の称号を受けている。
これはつまり、帯方郡の太守が公孫氏から魏の皇帝に移ったことへの表敬だったわけだ。

こうした当時の国際情勢を踏まえないと、真に倭人伝は理解できないということだ。

今月下旬に九州国立博物館で始まる「加耶展」は魏志倭人伝より少し後の時代(古墳時代)だが、前提となる倭人伝についても理解が深まるものと期待している。

卑弥呼についてのまとめ2023/01/02

記紀の神代の物語(神話)は虚構・ファンタジーだと思われがちだが、実はそう遠い昔の話ではない。

剣や鏡が大活躍しているので分かる。
金属器の伝わった弥生時代(紀元前4世紀~紀元後3世紀)の話なのだ。
したがって、基本的には事実か事実を反映したものと考えていい。

その3世紀、北部九州では女王・卑弥呼の時代に、奈良盆地に崇神天皇という偉大な天皇が現われた。

崇神天皇はハツクニシラス天皇(すめらみこと)と呼ばれる。
初めて国を統治した天皇という意味だ。

崇神紀10年に北陸道、東海道、山陽道、山陰道にそれぞれ将軍を遣わし(四道将軍)、全国平定を進めた。同12年には戸口の調査を命じ、税を課した。

その情報を得た卑弥呼は、崇神は次は九州に攻めてくると危機感を持った。
卑弥呼は魏との同盟で崇神を牽制しようと考える。
景初三年(239年)に魏に使いを送り、翌年、親魏倭王の称号を受けた。
天皇より先に「倭王」と認められたのである。

しかし、女王国(今の水城のあたり)の南には狗奴国(くな、熊=熊襲の国)という、もう一つの脅威があって、しきりに対立してくる。

卑弥呼は最前線で指揮を執るため山門郡のあたりに移り、そこにある邪馬国を従えた。
周辺地域を併合して領土を拡大し、国名を邪馬国から邪馬大国(邪馬台国)に改めた。
戸数7万余戸を数える大国である。
大国にふさわしく、いきま、みましょう、みまわけ、なかと、という4段階もの官職を設けている。長官、局長、部長、課長といったところだろうか。

247年、ついに狗奴国と戦争になる。
卑弥呼は魏の出先である朝鮮の帯方郡に報告する。

同郡から張政らが派遣され、大夫である難升米に詔書と黄幢(黄色の軍旗)を魏から授けた。

これを魏が卑弥呼を見限って難升米を指揮官にしたとみて、その直後に卑弥呼が死んだのは失意の死おそらく自死だろうという説が有力だが、卑弥呼は自分も戦うと打って出て戦死したのかもしれない。

卑弥呼は戦地からやや離れた高良山の麓に葬られた。

卑弥呼が死んで男の王が立てられたが、国がまとまらずに内乱となり千人余りが死んだ。
このため卑弥呼の世継ぎの台与(とよ)という13歳の少女を王としたところ国はおさまった。
台与はさっそく張政らを送り届けるという手腕を見せている。

のちに景行天皇が筑紫を平定しに今の山口県まで来たときに、豊前から船でやって来て帰順を誓った神夏磯媛(かむなつそひめ)が、数十年後の成長した台与の姿だろう。
「その手下は非常に多く、一国の首長である」と紀にある。
名前に神がつくのは只者ではない。
神夏磯媛は剣、鏡、勾玉の3つを船に掲げていた。
三種の神器の初出である。

ちなみに福岡市西区の吉武高木遺跡(紀元前2世紀初め)で、最も古い三種の神器のセットが見つかっている(昨年5/19参照)。福岡発祥なのだ。