都城支局内定取り消し事件 ― 2017/08/26
いよいよ私が退職するに至る大問題になる。
編集部デスク三年目の秋、どうしても編集部は嫌で早期退職も考えていると、鈴本部長に正直に相談した。
鈴本は入社は一年先輩だが、年は一つ下で、話しやすい人間だったのだ。
鈴本は退職してもつまらない、どこか行きたいところはありませんかと聞いてくれた。
私は本社から離れたい、ついては県内支社局は枕崎と奄美二か所経験しているので、県外がいいと希望した。
県外は来春どこが空くか。
宮崎の都城だということになった。
鈴本は都城支局経験者で、あそこはいいという話になり、私も大いに乗り気になった。
それから、腹畑・編集局長に話をしてくれ、局長もOK承諾したということだった。
うれしかった。編集部の地獄から解放されるのだ。
私はすっかりその気で、二度も妻と都城に下見に行った。
また一記者に戻れる。
異動が楽しみで待ちきれない思いだった。
2月中旬か下旬か、異動内示の日が来た。
ところが、局長の内諾を得ていたはずが、声がかからない。
情報が入ってくる。
都城支局は別の人間が言われたという!
約束を反故にされた。理由は分からない。
鈴本部長に「声がかからなかったんですけど」と力なく言うと、「えっ」と驚いただけだった。
文句の一つも言うべきだったかもしれない。
過去、異動に文句をつけて引っくり返った例はある。
しかし、そういう行動は私の人生哲学にない。
かと言って、編集部に残留する気力はない。
ショックを受けたまま鈴本部長に早期退職を申し出ると、今度は慰留してくれなかった。
ノイローゼになり、心療内科の診断書を出して休職し、そのまま退職した。
腹畑局長は東坊部長と親しかった。
いつも二人でこそこそ話していた。
思うに、2人は私の希望を握り潰して、退路を断とうとしたのだろう。
こんな子供めいたことが思い出される。
私は会社のトイレで腹畑に電気を消されたのだ。
三階の編集局フロアは東西百メートル、南北二十メートルという長方形で、中央と北端の二個所にトイレがある。
中央のトイレは屋外に面した窓がないので、電気を消したらほんとうの真っ暗闇である。
私が大きな方の用を足そうとして個室に入ると、続いて腹畑が入ってきた。
なぜ分かったかというと、強烈な香水の匂いがしたからである。
腹畑は鼻が曲がるほど過剰な量の香水を振りかけているので、どこにいてもすぐ分かる。
腹畑は軽く小用を足してトイレを出て行くときに、パチッと電気を消していった。
あっと声も出なかった。
まだ、ズボンを下ろしてしゃがんだままである。
何も見えない。
そのあとはすべて手探りで動いた。
腹畑は私とほとんど間を置かず入ってきたし、中央のトイレに行くには遮る物のない長い廊下を通るしかないのだから、必ず私の姿を目撃している。
だから、私が個室にいることを知っていながらわざと電気を切ったことは明らかだ。
こんなせこいことを。編集局長がすることか。
しばらくして再び同じことがあった。
また、私のあとに腹畑が入ってきて、出るときに電気を消していったのである。
いくらなんでも、こんな子供じみた嫌がらせをするだろうか、そんな悪意を信じたくない気持ちもまだ少しあったのだが、それではっきりした。
しかも今度は「おい、消すなよ」とすぐに叫んだのだが、腹畑は知らぬふりして去っていった。
以来、中央のトイレは避けて、北端の窓のあるトイレに行くようになった。
生涯一記者。それは記者職にある誰もが一度は思い描く理想像だ。
――横山秀夫『クライマーズ・ハイ』
編集部デスク三年目の秋、どうしても編集部は嫌で早期退職も考えていると、鈴本部長に正直に相談した。
鈴本は入社は一年先輩だが、年は一つ下で、話しやすい人間だったのだ。
鈴本は退職してもつまらない、どこか行きたいところはありませんかと聞いてくれた。
私は本社から離れたい、ついては県内支社局は枕崎と奄美二か所経験しているので、県外がいいと希望した。
県外は来春どこが空くか。
宮崎の都城だということになった。
鈴本は都城支局経験者で、あそこはいいという話になり、私も大いに乗り気になった。
それから、腹畑・編集局長に話をしてくれ、局長もOK承諾したということだった。
うれしかった。編集部の地獄から解放されるのだ。
私はすっかりその気で、二度も妻と都城に下見に行った。
また一記者に戻れる。
異動が楽しみで待ちきれない思いだった。
2月中旬か下旬か、異動内示の日が来た。
ところが、局長の内諾を得ていたはずが、声がかからない。
情報が入ってくる。
都城支局は別の人間が言われたという!
約束を反故にされた。理由は分からない。
鈴本部長に「声がかからなかったんですけど」と力なく言うと、「えっ」と驚いただけだった。
文句の一つも言うべきだったかもしれない。
過去、異動に文句をつけて引っくり返った例はある。
しかし、そういう行動は私の人生哲学にない。
かと言って、編集部に残留する気力はない。
ショックを受けたまま鈴本部長に早期退職を申し出ると、今度は慰留してくれなかった。
ノイローゼになり、心療内科の診断書を出して休職し、そのまま退職した。
腹畑局長は東坊部長と親しかった。
いつも二人でこそこそ話していた。
思うに、2人は私の希望を握り潰して、退路を断とうとしたのだろう。
こんな子供めいたことが思い出される。
私は会社のトイレで腹畑に電気を消されたのだ。
三階の編集局フロアは東西百メートル、南北二十メートルという長方形で、中央と北端の二個所にトイレがある。
中央のトイレは屋外に面した窓がないので、電気を消したらほんとうの真っ暗闇である。
私が大きな方の用を足そうとして個室に入ると、続いて腹畑が入ってきた。
なぜ分かったかというと、強烈な香水の匂いがしたからである。
腹畑は鼻が曲がるほど過剰な量の香水を振りかけているので、どこにいてもすぐ分かる。
腹畑は軽く小用を足してトイレを出て行くときに、パチッと電気を消していった。
あっと声も出なかった。
まだ、ズボンを下ろしてしゃがんだままである。
何も見えない。
そのあとはすべて手探りで動いた。
腹畑は私とほとんど間を置かず入ってきたし、中央のトイレに行くには遮る物のない長い廊下を通るしかないのだから、必ず私の姿を目撃している。
だから、私が個室にいることを知っていながらわざと電気を切ったことは明らかだ。
こんなせこいことを。編集局長がすることか。
しばらくして再び同じことがあった。
また、私のあとに腹畑が入ってきて、出るときに電気を消していったのである。
いくらなんでも、こんな子供じみた嫌がらせをするだろうか、そんな悪意を信じたくない気持ちもまだ少しあったのだが、それではっきりした。
しかも今度は「おい、消すなよ」とすぐに叫んだのだが、腹畑は知らぬふりして去っていった。
以来、中央のトイレは避けて、北端の窓のあるトイレに行くようになった。
生涯一記者。それは記者職にある誰もが一度は思い描く理想像だ。
――横山秀夫『クライマーズ・ハイ』
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