スマホから ― 2019/09/14
ドコモのらくらくスマートフォンmeに換えました。
なかなかいい。
iPhoneなんかより日本製がいいと思いますけどね。
なかなかいい。
iPhoneなんかより日本製がいいと思いますけどね。
韓国人の意識 ― 2019/09/24
9/21(土)、小倉に行く用事があって、ついでにぶらぶら、小倉城の下のベンチで休んでいた。隣のベンチに2人の男が来て、話し始めた。
韓国人と日本人である。韓国人は日本語が話せる。すぐ隣だったのでじろじろ見るわけにいかなかったが、おそらく韓国人は40-50代、日本人は30代と思われる。
韓「竹島は日本と韓国、どっちのものですか」
日「……、わかりません」
韓「わからない?(苦笑)どっちでもいいんですか」
日「…どっちでもいいです。争いがなければ」
韓さらに「歴史的に見れば、どっちですか」
日「……韓国?」
韓「韓国でしょう(勝ち誇ったように)!対馬はどうですか」
日「対馬は…(さすがに韓国とは言えない)」
韓「対馬も韓国ですよ」
韓国人はすっかり気をよくしたのか、日本人はいい、優しい、と言い出した。
「日本の人たちはいい。でも、政治家がダメ。特に安倍」
これを聞いて、だからこそ安倍総理を今後とも絶対支持しないといけないと思った。
韓国人が嫌がるからこそ、安倍総理の正しさは証明されるのだ。
それにしても、小倉も韓国人・中国人が我が物顔だ。
小倉城の隣の八坂神社では、中国人のおばさん集団が神社の10ほどもある鈴にぶら下がって一斉に鳴らし、記念撮影をしていた。
韓国人と日本人である。韓国人は日本語が話せる。すぐ隣だったのでじろじろ見るわけにいかなかったが、おそらく韓国人は40-50代、日本人は30代と思われる。
韓「竹島は日本と韓国、どっちのものですか」
日「……、わかりません」
韓「わからない?(苦笑)どっちでもいいんですか」
日「…どっちでもいいです。争いがなければ」
韓さらに「歴史的に見れば、どっちですか」
日「……韓国?」
韓「韓国でしょう(勝ち誇ったように)!対馬はどうですか」
日「対馬は…(さすがに韓国とは言えない)」
韓「対馬も韓国ですよ」
韓国人はすっかり気をよくしたのか、日本人はいい、優しい、と言い出した。
「日本の人たちはいい。でも、政治家がダメ。特に安倍」
これを聞いて、だからこそ安倍総理を今後とも絶対支持しないといけないと思った。
韓国人が嫌がるからこそ、安倍総理の正しさは証明されるのだ。
それにしても、小倉も韓国人・中国人が我が物顔だ。
小倉城の隣の八坂神社では、中国人のおばさん集団が神社の10ほどもある鈴にぶら下がって一斉に鳴らし、記念撮影をしていた。
中沢けいに反論する ― 2019/09/26
中沢けいが近年、反日的言動を繰り返しているのは、かつてのファンとして非常に残念だ(今も初期短編集3冊が本棚にある)。
また、法政大学教授という社会的立場からも実害が大きい。
石川達三の『生きている兵隊』が中国で広まったのは、尾崎秀実(ソ連のスパイとして昭和19年死刑)の策略によるものであるのは、河原理子『戦争と検閲――石川達三を読み直す』(岩波新書、2015年)によって明らかになっている。
石川達三は昭和13年1月8日、中華民国の首都南京に到着した。15日に上海に戻るまで、南京には正味7日間滞在した。20日に上海を発ち、23日に東京に戻った。
帰国後、『中央公論』3月号に発表するために一気に書き上げた『生きている兵隊』には、日本軍の南京攻略戦の残虐性をたっぷり盛り込んだ。
ところが、南京が陥落したのは前年の12月13日である。
日程から分かるように、石川は南京攻略戦を実際に見聞したわけではなく、南京と上海での取材・伝聞・想像で書いたのである。
一方、同じく小説家の林芙美子は石川よりも早く、前年(昭和12年)12月30日上海から陸路で南京に向かい、大みそかに到着。明けて13年1月3日まで滞在している。南京市内に3泊、前後に露営を1泊ずつ、計5泊6日の南京行である。
林が南京から帰国後わずか半年で出した『私の昆虫記』(改造社)に収めた一連の南京従軍記には、一言の虐殺行為も出てこない。日本軍の〝蛮行〟を暗示したり、うかがわせることさえ、何も出てこない。
この違いは何か。
ないことは書かなかった林芙美子に対し、石川達三が見もしない残虐行為をでっち上げたのはなぜか。
より刺激的な作品にするためである。
のちの「公判調書」の供述では、石川は南京に行く前から、国民が戦争に対して「暢気」な気分でいるのが不満だったという。
「出征兵士ヲ神様ノ様ニ思ヒ、我軍カ占領シタ土地ニハ忽チニシテ楽土カ建設サレ、支那民衆モ之ニ協力シテ居ルカ如ク考ヘテ居ルカ、戦争トハ左様ナ長閑ナモノテ無」いと信じ、「戦争ト謂フモノノ真実ヲ国民ニ知ラセル事」が必要だと考えていた。
「殊ニ、南京陥落ノ際ハ提灯行列ヲヤリ御祭リ騒ヲシテ居タノテ、憤慨ニ堪ヘマセンテシタ」という。それが南京取材の動機だ。
つまり、行く前からセンセーショナルな(煽情的な)作品を書いてやろうと決めていたのである。南京取材は『中央公論』に自ら請うたものである。この愚かな浅薄な姿勢が、日本に取り返しのつかない災厄をもたらした。
昭和60(1985)年、死去する少し前の石川は、畠中秀夫氏のインタビューに答えて、南京大虐殺を否定している(じゅん刊『世界と日本』「聞き書き 昭和十二年十二月南京」)。
「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です」
―――そのときどのような虐殺をご覧になられましたか?
「大殺戮の痕跡は一ぺんも見ておりません」
―――いわゆる「南京大虐殺」をどう思いますか?
「何万の死体の処理は、とても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今でも信じておりません」
なんという無責任な作家であろうか。
同姓のMに謝罪を求める ― 2019/09/28
18年ほど前の、勤めていた新聞社での出来事だが、今も時折思い出しては頭にかーっと血が昇り、怒りで何も手につかなくなる。
その相手は、嫌なことに私と同姓の男で、今は編集部のデスク(副部長)をしている。
当時、私は大島支社(名瀬市)の支社長だった。
支社長と言っても部下は一人で、自分も同じように取材に走り回っていた。
当時、徳之島の伊仙町では選挙がらみのいざこざがよくあった。
徳之島にも支局があるのだが、この人は地元の高校の先生上がりで、事件ものは取材しない決まりになっていた。
そこで私が手伝いに行ったのだが、そのあと社会部からもその男Mが応援に来た。
現場の様子は大したことなく、M一人で十分対応できそうだったので、私は後を託して飛行場に向かった。
というのも、ちょうど強い台風が接近しており、その日に帰らないと足止めを食らいそうだったからだ。
何日も足止めされたら、支社を部下1人に任せることになる。何としても帰らなければならない。
途中、Mから「大変なことになっている。すぐ戻ってください」と電話があり、急きょ、引き返した。
ところが、戻ってみると何事もない。Mは「今、落ち着きました」という。
もう飛行機は逃したので、今度は船で帰ろうと港へ向かった。
するとまたMから「すぐ戻ってください」と電話が来て、戻る。
ところが、現場は何も起こっていない。
Mは平然としている。
結局、私は帰りの手段を失い、予報通り台風が襲来して空も海も欠航し、その後3日も奄美大島に戻れなかった。
仕事の予定はすべて狂い、私も支社の部員も大変な迷惑を蒙ったのである。
しかし、Mは一言も詫びなかった。
Mは社会部員だが、現場では私が上司(支社長は副部長)であり、「あとを頼む」という指示には従わなければならない。
明らかな業務命令違反である。
社会部長に報告すべきだったが、私はそういうやり方を好まないし、思いつかないほうだ。
Mが反省すると思っていた。
何年か後、Mとまた仕事をする羽目になった。
私が編集部デスク、Mが社会面担当の部員としてである。
その機会にMに嫌がらせをすることもできたが、私はそうせず、嫌悪感に鳥肌立ちながらも穏やかに接し、仕事を進めた。
Mは結局、一言も謝罪しなかった。
Mも今、デスクという立場になって、言うことを聞かない部員に手を焼くこともあるだろう。
そんなとき、徳之島で私にしたことを反省したりするだろうか。
いや、してないだろうな。
Mに真摯な反省と謝罪を求める。
その相手は、嫌なことに私と同姓の男で、今は編集部のデスク(副部長)をしている。
当時、私は大島支社(名瀬市)の支社長だった。
支社長と言っても部下は一人で、自分も同じように取材に走り回っていた。
当時、徳之島の伊仙町では選挙がらみのいざこざがよくあった。
徳之島にも支局があるのだが、この人は地元の高校の先生上がりで、事件ものは取材しない決まりになっていた。
そこで私が手伝いに行ったのだが、そのあと社会部からもその男Mが応援に来た。
現場の様子は大したことなく、M一人で十分対応できそうだったので、私は後を託して飛行場に向かった。
というのも、ちょうど強い台風が接近しており、その日に帰らないと足止めを食らいそうだったからだ。
何日も足止めされたら、支社を部下1人に任せることになる。何としても帰らなければならない。
途中、Mから「大変なことになっている。すぐ戻ってください」と電話があり、急きょ、引き返した。
ところが、戻ってみると何事もない。Mは「今、落ち着きました」という。
もう飛行機は逃したので、今度は船で帰ろうと港へ向かった。
するとまたMから「すぐ戻ってください」と電話が来て、戻る。
ところが、現場は何も起こっていない。
Mは平然としている。
結局、私は帰りの手段を失い、予報通り台風が襲来して空も海も欠航し、その後3日も奄美大島に戻れなかった。
仕事の予定はすべて狂い、私も支社の部員も大変な迷惑を蒙ったのである。
しかし、Mは一言も詫びなかった。
Mは社会部員だが、現場では私が上司(支社長は副部長)であり、「あとを頼む」という指示には従わなければならない。
明らかな業務命令違反である。
社会部長に報告すべきだったが、私はそういうやり方を好まないし、思いつかないほうだ。
Mが反省すると思っていた。
何年か後、Mとまた仕事をする羽目になった。
私が編集部デスク、Mが社会面担当の部員としてである。
その機会にMに嫌がらせをすることもできたが、私はそうせず、嫌悪感に鳥肌立ちながらも穏やかに接し、仕事を進めた。
Mは結局、一言も謝罪しなかった。
Mも今、デスクという立場になって、言うことを聞かない部員に手を焼くこともあるだろう。
そんなとき、徳之島で私にしたことを反省したりするだろうか。
いや、してないだろうな。
Mに真摯な反省と謝罪を求める。
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