薩摩の廃仏毀釈が円満に遂行された理由2018/10/10

いわゆる「仏教政治」を行ったことで有名な称徳天皇(718-770年)。
僧の道鏡を信任して「法王」の位を授けた女性天皇だ。
「神々を仏法から隔離する必要はない」と神仏習合を進めた。

ところが、「神々は三宝(仏・法・僧)より隔離されていなければならない」という一部貴族たちの見解は、称徳天皇の意図に反して一時的なものにとどまらず、神仏習合が大きく進展する中でも少しも消滅しなかったと指摘するのが、高取正男『神道の成立』である。



高取は三つの例を挙げているが、うち一つは伊勢神宮である。
「明治新政府が発足するまで、伊勢神宮が僧形法体のものの社頭への直接の参入を拒んできたのはかくれもない事実である」

さらに言う。

「古代以来の神仏隔離の意識は、伊勢神宮という特殊な神社をめぐる特別の教説のなかにだけ継承されたのではない。その裾野は思いのほか広く、人々の生活のなかに保持されてきた。でなければ、明治初年に発せられた神仏判然の令が、それほど社会的な混乱もみずに実施された事実を、うまく説明することはできないだろう」

高取の説は、薩摩藩の廃仏毀釈について「現在でも最高レベルの概説書」(黎明館研究員)といわれる、鹿児島県史第三巻第六章「廃仏毀釈と神道宣布」の記述と見事に対応し、廃仏毀釈の謎に大きな一つの答えを与えている。

「藩内の寺院は全部廃止せられ、僧侶は還俗したのであるが、寺院の建物・敷地・財産は還俗した住職の所有となり、元士族出の者は士族に、農は農に、商は商に還し、又壮年の者は兵士としたが、総出家の三分の一に近い数が兵士になったといふ。なほ極老・病身・孤独等にて生計困難なる者には養育料を給与する事となり、未だ給与を受けざる者を取調べ申出づべき旨、明治三年十一月知政所より発令した。即ち廃仏毀釈によって困窮した人はなく、多くは他の方面で活動し、又本寺本山等に訴へて之を阻止しようとした者もなかったから、万事円満に遂行され、なほ藩は相当多額の旧寺領を収め、梵鐘・仏具・仏像等を鋳潰して、兵器或は通貨等を多数に得たので、経済上に於いても利益があったが、一面歴史上貴重なる史料や美術上得難き実物にして散逸した物も多かったのである。」

いまだに薩摩藩が「凄まじい破壊」を行ったように印象付ける本が出ているが、信用してはならない。

仏式の供養をやめるには2018/10/10

「宮田」という名字の「宮」が神社を表しているように、宮田家は代々、神道だった。

父はなぜか母の死に当たって寺を呼んで、毎年、法事をやった。
父の気持ちを斟酌すると、母が49歳という若さで亡くなったので、あっさりした神式の葬儀よりも、悲しみの表現として仏式の読経や仏壇、位牌で供養するほうが合っていたのだろう。

しかし、父も亡くなって、やはり「宮」の字を持つ者として、神道に戻さねばならないと考えている。

どうすればいいのだろう。
私のような悩みを持つ者はいるようで、柳田国男の『先祖の話』には、こうある。

「近世のいわゆる神葬祭、すなわち先祖祭も葬礼も共に仏式によるまいとする家々には、急いでその仏壇を無くしてしまって、これを神棚の方に合併したものも大分あった」として、「私の生家松岡氏などでも、祖母は仏教信者だったのでこれを仏式で供養し、その三年の喪が終わって後に、すべての仏具経巻と共に、代々の位牌を大川に流し棄てて、仏壇をただの戸棚にしてしまった」という。

さすがにこんな乱暴なやり方は真似できない。
どうすればいいか、アドバイスできる方がいたらコメント下さい。