「城山崩壊」の舞台を訪ねて④ ― 2017/11/09
上中下の3回で、私は中を担当、上下は先輩記者が書いた。
災害の原因は複合的だろうが、上では城山観光ホテルの問題をかなり厳しく書いている。
鹿児島大学教授(地学)は「城山のガケ崩れはあらゆる都市開発の要因が複合しているが、ホテル建設を許可したことがそもそもの始まり。城山の地山をぜい弱にした」と語る。
ホテルの敷地(約3ヘクタール)のほとんどはかつて保安林に指定されていた。ところが、昭和35年から37年までに、山林を買収したホテル側が保安林解除を申請。異議もなかったため聴聞会も開かれず認められた。
ホテル側の言い分も取り上げている。
「うちはホテルをつくるために山を削って平たんにした。防災には十分配慮して雨水はガケ下にいかぬよう大型の排水溝を完備している。元の山のままだったらもっと被害が出たのでは」
私の小説はガケ崩れがメーンのプロットだが、もちろんホテル原因説は採っていない。
そんな安直に言えることではない。
ところで、城山観光ホテルはその後、過大な不動産投資の結果、2005年3月期の負債総額が約640億円に達し、事実上の破産状態となった。08年3 月に私的整理が終わった後、野村證券グループの役員だった伊牟田均氏を運営会社城山観光の社長に招いて業績を回復し、再生したのだった。
今回の帰郷で同級生と話をしていて分かった。私はその頃、退職のドタバタの最中だったため、記憶になかった。
「城山崩壊」の舞台を訪ねて⑤ ― 2017/11/09
私がかつて働いた南日本新聞社は鹿児島市易居町にあったが、モデルにするにあたって易居(やすい)町は読みにくいので、隣の山下町にした。
山下町の由来は「城山の下」ということだから、タイトルにも連動する。
南日本新聞社は与次郎ヶ浜に移転してしまったが、私にとっての新聞社はやはり易居町の新聞社である。
南日本新聞はとても歴史のある新聞社で、西南戦争に従軍した野村忍助(おしすけ)が中心になって創刊した。
野村は熊本城の立ちはだかる陸路を取ることに一人敢然と反対した。案は容れられなかったが、豊後方面総司令として奇兵隊21個中隊2500人を指揮した。本隊が敗れたあと3カ月持ちこたえて敗走を助けた。
官軍の城山総攻撃時には重体で動けず捕虜になった。東京の市ヶ谷監獄に入っていたが、特赦によって郷里に戻り、明治14年(1881)末、鹿児島で初めての新聞、鹿児島新聞を創刊した。
その後いくたびか変遷するが、新聞社はずっと山下町、易居町界隈で事業を続けてきた。
そんな創業の地を捨て、縁もゆかりも歴史も長所もない与次郎ヶ浜に2001年、新聞社は移転してしまったのである。
無念でならない。
旧社屋は鹿児島市が買い取り、「ソーホーかごしま」として使っている。
私には新聞社の抜け殻、廃墟にしか感じない。
できれば「ソーホーかごしま」に事務所を借りて、南日本新聞の帰還の日を期したいと真剣に思ったほどである。
誰も望まなかった不可思議な移転については、新聞記者シリーズ第3弾で書きたいと思っている(第2弾はもうできている)。
海音寺潮五郎の短編集 ― 2017/11/09
5日、和田竜さんの講演「海音寺潮五郎と歴史小説の魅力」を聴いた。
かごしま近代文学館の海音寺展の関連イベントで、同館の吉村さんとの対談形式だった。
和田さんは海音寺のおすすめとして、「豪傑組」(短編集)、「海と風と虹と」(長編)、「武将列伝」(史伝)の三冊を挙げた。
海音寺と司馬遼太郎の本はいつも枕元に置いて、寝る前に読むようにしているという。
なるほど、これは無意識に焼き付ける方法だな、と思った。
似たような話はよく聞く。
宮部みゆきが時代物を書く前には「半七捕物帳」を読むとか。
10月1日に聴いた、「花戦さ」の作者鬼塚忠さんに至っては、本を見ながら書くという。そうすると、文章が一定するというのだ。残念ながら誰の本かは教えてくれなかったが。
文章は真似から始まるとはよく聞くが、一人前の作家となった後でも皆、他人の文章を手本にし続けているということだ。
海音寺の本は絶版が多いが、買い置きしていた短編集「立花宗茂」は、和田さんが挙げた「豪傑組」と何編か重なっているではないか。早速読んだ。
島津義弘の家臣、中馬大蔵、押川強兵衛、矢野主膳が活写されていて実に面白い。
質疑応答で2人が重ねて「大河ドラマの原作になるような島津義弘の話を書いてほしい」と和田さんに要望していたが、これらの短編だけで練達の脚本家なら大河ドラマを書けそうだ。
以前、やはり短編集の「田原坂」を読んで感心したが、和田さんも言うように海音寺は短編がうまい。
そうこうしていると、古書店に注文していた「蒙古来る」上下が届いた。
よし、読むぞ!


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