英彦山神宮の神仏習合復活2022/03/06

2017.9.26に「仰天!宮司さんが僧侶を兼ねる?」という記事を書いたが、これは自分のFacebookをシェアしたもので、今はFacebookを断捨離してしまったので読むことができない。

ともあれ本日、九州国立博物館特別展「最澄と天台宗のすべて」の関連イベントとして座談会「英彦山と神仏習合の歴史と未来」があり、その後の経過を知ることができた。

出席したのは英彦山神宮の髙千穗秀敏宮司と髙千穗有昭禰宜。親子である。

宮司を高千穂家がやるようになって六代目の秀敏氏は元エンジニアであり、継ぐつもりは全くなかったという。
しかし帰ってみると英彦山がひどく寂れているのを痛感し、かつての修験の復興を志すようになった。

そのためには誰かお経を読める人が必要だ。

高校の機械科にいた有昭氏が応じ、一年浪人して皇學館大學に入り、英彦山神宮に奉職した。
次は僧侶にならねばならない。

幸い、比叡山で十二年籠山行をした人が「しそう(師僧か?)」になってくれて、70日間の修行をした。

たった70日で僧侶になれるの?という気もするが、お堂から一歩も出られず、食べる物は精進ばかりなので終わったときには体重が20キロも落ちてがりがりだったという。

こうして神主であり僧侶でもあるという珍しい存在が英彦山神宮に誕生した。

今後の目標をいくつか挙げた。
不動明王を置いて護摩焚きができるようにしたい。
英彦山の各所を回る修行ができるようにしたい。
さらに皿倉山~英彦山~宝満山の2つの修行ルートを確立したい。
昔、山伏がやっていた森林の再生(鎮守の森)をやりたい。
天台宗のお寺を建て、法話をしてから一緒に英彦山に登りたい。

そして、二人の息子のどちらかに継いでもらいたいと締めくくった。


ちなみに私は神道なので、神仏分離の方がしっくりきます。

2拠点生活2022/03/07

福岡(現住所)と鹿児島(故郷)の2拠点生活をしたいとだいぶ前から考えている。

7年前だったか、鹿児島市のワンルームを借りた。
県立図書館の横で、場所は最高だったが、何せ老朽物件で部屋のダニがすごかった。

これといって鹿児島ですることもないのでせいぜい月に一回の利用となり、もったいないので一年で解約した。

この経験で分かったのは①経済的な問題(安ワンルームといえども結構金はかかる)②その拠点で何をやるか(やることがないと意味がない)――この2つを解決しないと続かないということだ。

先日、東京と別府の2拠点生活をしている女性がネットに出ていた。別府(故郷)は温泉による町おこしをしてるんだったかな。
かと思えば、ツイッターに東京・長野・福井の3拠点移動生活者という人がいる。
経済的な問題はどうしているんだろう? 謎だ。

ウクライナ問題は北方領土問題と連動させるべき2022/03/08

まずは北方領土の領有権を国際司法裁判所に提訴しましょう。
世界の人たちはきっと日露の北方領土問題を知らないでしょうから、今ウクライナ問題も相まって関心を呼ぶことでしょう。
その上での実力行使なら世界も理解協力してくれるでしょう。

斉明天皇①2022/03/10

斉明天皇は天智・天武天皇の母で、それ以外にはあまり言及されないようだ。詳しく知りたいと思っても、適当な本が見当たらない。

しかし、かなり偉大な天皇であったと思われる。
というのも高麗、百済、新羅がこぞって服属しているからだ。

そして斉明6年(660年)10月、百済が唐の捕虜100人を献上して救援を請うてくる。斉明天皇はすぐに決断、12月には難波宮で軍備を整え、翌年正月6日、68歳の天皇自ら難波津を出航し、筑紫に向かった。
船には中大兄皇子(天智)や大海人皇子(天武)も同乗していた。

途中、伊予の熟田津(にきたつ、愛媛県道後温泉あたり)で、約70日間疲れをいやす。
そして再び出帆するとき額田王が詠んだのがこの歌。

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

(熟田津から船出をしようと月の出を待っていると、待ち望んでいたとおり、月も出、潮の流れもちょうどよい具合になった。さあ、今こそ漕ぎ出そうぞ。)~伊藤博『萬葉集釈注1』(集英社文庫)

船は3月25日、現在の博多港に到着し、その後、斉明天皇は「筑紫の朝倉の宮」に移る。しかし、7月24日、天皇は朝倉宮で崩御する。まさに朝鮮のためにご老体を犠牲になさったわけだ。昔から日本に頼って迷惑ばかりかける国だ。

朝倉宮は正式には「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」と言って、福岡県朝倉市須川にその跡と記した碑が建っており、そこには以前行ったことがある。

斉明天皇の陵墓は奈良県高市郡明日香村にある牽牛子塚(けんごしづか)古墳で、三段、八角形の特徴的な形状をしている。
全体を白い凝灰岩で装飾していた当時の姿が再現され、今月公開されて話題になった。

斉明天皇のご遺骸が飛鳥に運ばれる前、いったん朝倉で葬儀が営まれた。
その場所は「朝倉橘広庭宮」ではない。
恵蘇八幡宮になっている場所だと知って行ってみた。
思った以上に素晴らしい神社だった。

斉明天皇②2022/03/10

皇太子・中大兄皇子(のちの天智天皇)は、母斉明天皇のご遺骸の置かれた御陵山の山腹(今の社殿のある所)に丸木で忌み殿をお建てになって、一日をひと月として12日間、喪に服された。

このため、ここを「木の丸殿」(このまるでん)と呼んでいる。

そのときの御製が新古今集に採られている。

朝倉や木の丸殿に我居れば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ

斉明天皇③2022/03/10

恵蘇八幡宮の後ろにある小さな山が、一時斉明天皇のご遺骸があった場所として斉明天皇の御陵とも言い、また古墳としても扱われている。
(クリックで写真を拡大、説明が読めます。以下同じ)

斉明天皇④2022/03/10

それにしても、斉明7年(661年)3月25日に娜大津(なのおおつ、今の博多港)に着いた斉明天皇は、いったん磐瀬行宮(いわせのかりみや、福岡市内)に入りながら、どうして5月9日、朝倉橘広庭宮に移ったのか。

福岡市から朝倉市までは今でもかなり遠い。
ましてや当時は大変だろう。

福岡市内が何らかの理由で不都合だったとしても、途中の大宰府でいいではないか。

「筑紫大宰」が歴史上に現われるのは推古17年(609年)が最初だから、それから50年以上たって大宰府政庁もだいぶ整備されていただろう。
天皇がそこに落ち着くのはごく自然だ。

ところが、斉明天皇ははるばる朝倉まで行った。

しかも朝倉では悪いことばかり起こる。
朝倉橘広庭宮は朝倉社の木を切って作ったために、神様が怒って御殿を壊した。また宮殿内に鬼火が現われ、大舎人や近侍の人々がたくさん病死した。

そしてとうとう7月24日、天皇ご自身も死んでしまう。

8月1日の宵、朝倉山の上に鬼が現われ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。

これは中大兄皇子(天智天皇)が木の丸殿で12日間の喪に服していた時に当たる。

したがって、このときの御製「朝倉や木の丸殿に我居れば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」とは、怪しい者(鬼)の正体を問うたものだと解釈していいのではないか。